生きる

コロナ禍の中で、ふっと、こんな事を考えた。

生きるって何だ・・・。

いや、この設問は正確ではない。動物、植物、鉱物、その他それぞれの存在にはそれぞれの生き方があり、また我々人間に限っても、男性、女性、年齢、財産、環境、時代、感性、思考の違いによって一人一人それぞれ異った生き方がある。となれば今現在を生きる私にとって生とは何だという事になる。

私はとっても弱い存在。一人では、グループを作らねば存在が出来ない。(私だけではなくたぶん他の人達も)なのに私は1人で居る事が好き。グループは嫌い。なるべくならば、一人っ切りで、自分の好きな事を、自分の好きなようにしていたい。でも、そうであるからこそ、そしてこれも私の大原則の一つだが、他人に迷惑をかけたくない。(しかし人間は、常に、誰かに迷惑をかけて生きて行く動物。なのに、それなのに、一人では生きて行けないのに、そう人間は「我(われ)」というエゴを、考案し、養い、強大にしてしまった。(そして私自身も)

グループは本当に面倒だ。人間の集まりは「我(われ)」のエゴの固まり、ぶっつかりあい。その「我(われ)」の集まり、固まりぶっつかりあいを苦にしない人間も沢山いるだろう。しかし、私にとっては、それは大の苦手。だから一人でいる事が安らぎ、大好き。でも、そんな私、人間は一人では生きられない。それは大原則。ここからは堂々巡り。

・・・この頃の朝は寒い。二時頃に目を覚ます私は、春から秋までは起きて机に向って読むなり、書くなり、セリフを覚えるなり・・・。しかし今は蒲団の中で「五重塔」のイメージトレーニング。(セリフを声に出しながら「ここで立って、右を向いて、間を取って」とブツブツブツブツ)それから新聞を読み、五時ちょっと過ぎに、真っ暗な中を公園に行きトレーニング、六時四十分のラジオ体操まで。帰って朝食、読書、昼食、読書、四時頃になると又公園でトレーニング。夕食、入浴して八時前には就寝。

子育ても終り、仕事もガンガンやる必要、条件、体力もなくなり、それでも好きな演劇は、体力の続く限り、気力の有る限り、記憶力の可能な限り創り続けたい私の、これが日常。そんな私にとって生きるとは。今を生きるとは・・・。

今の自分の条件の中で創り続ける事。

創り続ける限り、私は生きている。うれしい。で、その後は・・・。創り続けられなくなってしまった、その後は・・・。

分からない、その時はその時。その時になって考えてみる・・・。