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猫の呟き 一覧

猫の呟き

「シェイクスピアはいついつまでも私の先生なのだ」


白水社、小田島雄志訳「シェイクスピア全集」を読んでいる。これで何回目だろう。多分これからも生きている限り「これで最後だろう」と云いながら、いつまでも読みたくなる、読まずにはいられなくなるのだろう。

英語の原文は勿論無理なので翻訳に頼らなければ読めない。色々な方々の翻訳が出版されているが、私には坪内逍遙訳が一番ピッタリとくる。

そう、ワクワクするのだ。(小田島訳が読了したら、次には坪内訳をと決めてある)

小田島訳は分かりやすいし、それなりに面白い。でも、自分で舞台で勝負しようとすれば、今までもそうであったが、これからも多分坪内訳となるだろう。

今日現在一、二巻を読了。面白かった作品は「ロミオとジュリエット」「ハムレット」「オセロー」「十二夜」「リア王」「マクベス」

全て、演出又は演者として上演し、勝負している。そして全て坪内訳で。

今回読んで感じた事はシェイクスピアの多面性である。演劇は色々な顔でもって私たちの前に現われる。

ああいう舞台も有れば、こういう舞台も有る。

でも、シェイクスピアは、それら全てを持って私達の前に現われる。

そう、演劇は、舞台は、多面的面白さで私達の前に有るのだ。

「その多面的全てを楽しみ創りなさい。」

そう、シェイクスピアは、いつでも、いつまでも、私の先生なのだ。

演劇の持つ多面的面白さを、これからも追求し、楽しみたい。

猫の呟き

充電期間終了

五月末の「四十八癖」公演が無事終って、はやひと月。

こんなにも集中し、こんなにも疲労が溜っていたんだ。(やっぱり大変な公演だったのだ)

決まっている事は、何とかこなしているし、焦る事もない。

でも、先へ、次へと進まない。この変てこな状態にぐずぐずぐずついているだけの毎日。

そう、こんな時は、焦ったら悪くなるだけ。ぐずつくだけぐずつけ。

身体は動かしているし、読書もし、音楽を聞いて、それなりに毎日を楽しんではいる。すると、音楽を聴いている最中に、突然、プチンと何かが弾けた。

「あそこは、ああ演ったらどうだろう・・・」「そう、こんな演り方もあるなあ・・・」

突然、何だか、前方が明るく開けたよう。

でも、まだ、それは小さな点。

この小さな点が沢山出て来て、それが面になって、その面が繋がって線になって・・・。

ようし、明日から「走れメロス」の稽古を始めよう。そして稽古用に作っておいた台本を、「語り芝居」風に改めて第二稿を作製。

これから約一年、この、小さな点が、動き始めて、どんな舞台を創り出すか・・・。

山あり、谷あり、でもそれはいつもの事。

焦らず、急がず、楽しみながら・・・。

出発!

猫の呟き

「これがそうなのだ」

「四十八癖」の公演も無事終了。

ありがとうございました。

観に来て下さった方達への御礼状の発送も済み、公演後の片付けも終わりホット一息。と、途端に身体が重く感じられ、気分も悪くなり、何をやってもすぐ疲れを感じ・・・。

公園で身体を動かしている時だけは、何か、ホッとした気分になって・・・。

公演までの疲れが、こんな形で、急激に・・・。

そう、後期高齢が、こんな時に顔を出すんだ。

そう、まずは疲れを取ろう。こんな時焦っても駄目。上手く行くはずもない。

ノンビリと、何をするでもなく、身体と頭を休めて・・・。

いつまでも、若くはない。

ゆっくりと、ゆっくりと。

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「逆境も宝の山」

「宮沢賢治全集」を読了。凄い。面白い。幾つになっても、ワクワク、ドキドキさせる。

それにしても、「くすのき」出発時に、よくも出合わせてくれたもの。本当に、ラッキー。人間って、一生懸命、真面目にやっていると、こんな後押し、幸運に巡り合えるのかも。

たった三人、金もなし、実績もなし、頼るべき後ろ盾もなし。

そんな三人に、「宮沢賢治」が!いや、そうじゃない、たった三人で、何も無かったからこそ宮沢賢治と出合って「語り芝居」という舞台を思い付き、具体化したのだ。

そう、何も無かったからこそたった三人だったから、「語り芝居」は出来たのだ。

四十年たった今、やっぱり「くすのき」は「語り芝居」の「くすのき」だ。今でも、あの舞台は面白い。凄い。ワクワク、ドキドキさせる。

人生って、何が宝で、何が無駄なのか・・・。

無駄なんて、もしかしたら、一つも無いのかも・・・。

自分の好きなものを見付けて、一生懸命、自分の条件を考えて、毎日毎日、コツコツと・・・。

賢治さん。ありがとう。素敵な人生を送る事が出来ました。これからも、よろしくお願い致します。

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「流れ流れて」

さ来年は「くすのき」創立四十周年。思えば遠くへ来たものだ。で、筑摩書房「新修宮沢賢治全集」を読み直し始めた。

「くすのき」発足は「宮沢賢治、語り芝居」と動き出した。

 何故「宮沢賢治」だったのか。そして、それが、どう変ったのか。あるいは変わってないのか。色々な要素があってそうなったのであろうが、再度点検してみるのも面白い。

 人間は年々再々変わっていきます。世の中もそうです。十年一昔というように。

 ならば、今、私にとって「くすのき」にとって「宮沢賢治」はどういう意味を持っているのか。自分の人生にとっても、「くすのき」の四十年にとっても、きちんと今現在の評価を出す必要はある。私は、今でも「宮沢賢治」が好きです。しかし、その「好き」も昔と同じ「好き」なのか、それとも違っているのか・・・。

 まあ、この機会に、それをじっくりと確かめてみよう。

 ゆっくりと、味わいながら・・・。

猫の呟き

私の「『語り芝居』に決定稿はない」

自分のレパートリーの録音したテープを点検も含めて聞き直してみた。「宮沢賢治作品」「シェイクスピア作品」「夏目漱石作品」それに今年公演予定の「式亭三馬作品」来年公演予定の「太宰治作品」「ういろう売り」等々。

上演時期が異なっているので、自分の声も色々。こんなにも声も違ってくるのだ。

が、それよりもっと驚いた事は、今演じているのと録音時との台本の違い。昔の台本には有るが今はカットして演じてない処もあるし、昔の台本には無いが今は付け加えて演じている処もある。

録音仕直そうか。

が、止めた。そう、私の「語り芝居」には決定稿は無い。それは当然の事だ。「落語」と同じ。同じ演目でも、語り手が異なれば、大筋は同じでも違う作品になっているし、演者が同じでも時代に連れて違ってくる。

私の「語り芝居」も、私の変化につれて変わる。それは当然の事。「朗読」なら、それは許されないが、「語り芝居」はそれが当り前。それこそが、演者にとっても観客にとっても醍醐味(だいごみ)。

さあ、これからどう変わっていくか。

何だか楽しくなって来て、作業を終えた。

猫の呟き

「日常と非日常」

朝五時三十分。いつものように近くの公園へ。このところずっと氷点下。でも、その寒さには慣れたようで寒さを感じない。真っ暗な公園で唯一人。いつものトレーニング。そのうちに一人、又一人と公園内を歩く人が増えてくる。六時三十分、ラジオ体操。この頃は十人ちょっと。春から秋までは三十人近くはいるが、この寒さでは出て来るだけでも一仕事。ラジオ体操が終り、家へ帰り、いつもの日常が始まる。朝食が済んで、片付けが終ると又公園へ。自分のレパートリーの点検、練習と、春の公演の稽古。寒いので、広い公園内に、私を入れて、一人か二人、多くて三人。迷惑をかける他人(ひと)が居ないから、大声でセリフを言える。他人の目を気にせずに、動ける。ありがたい事です。

朝のトレーニングと朝食後の稽古は、私の日常であると同時に非日常でもある。

年賀状と寒中見舞いに「今年もどうぞよろしく」と書いてあると「よーし、今年もやるぞ!」となる。

門付けは自分の方から行ってするもの。私のは「やって下さい。」と向うから頼まれて。だから、これは門付けではない。でも、私は門付けと思ってやる。上演場所、観て下さる人、時間、全てあちらまかせ。

人生の終わりに、こうしたドキドキを味わえる。何と素晴しい事か。これは、そうプレゼント。その愛に答える為に、今、自分の出来る事は、全てやる。だから、それは日常であって日常ではない。つまり私にとっては非日常でもある。

プレゼントがいつまで続くのか、分からない。でも、その愛がある限り、私の非日常も続くだろう。

猫の呟き

「好きな事をしていると、時は、あっという間に過ぎていく」

随分長ったらしい題名だ。でも、今の私の毎日にピッタリの題名である。

十一月のある日、早朝(三時頃であろう)布団の中で目を覚ますと、ハッとこの事が浮んで来た。そうだ「四十八癖」の後、何を上演しよう。まず浮んだのが「走れメロス」

これは、今秋、多摩市の劇団の朗読公演に行って「走れメロス」その他を聞いて「ああ、朗読だとこうなるんだ。いいなあ」との感想がそのまま残っていて、それがスーッと浮んで来たのであろう。しばらくして、今度は「ロミオとジュリエット」が飛び出した。

青春!全てをただ一つ、一回の愛に托す。そのエネルギーの潔さ、美しさ、強さ。その二つと頭の中で遊んでいると、今度は「オセロー」の中のイアーゴーが浮んで来た。

そう、その悪党の魅力。やってみたかった役である。題名は「獅子身中の虫、イアーゴー」と仮題まで付ける。そうこう遊んでいるうちに五時。いつもの公園でトレーニングをする時間。起きて公園へ。

そして、いつもの日常が動き出す。

しばらくして「四十八癖」の稽古をしながら、その三作品の台本創りをいつの間にか。苦しくて、辛くて、難しいが面白い。

上演できるのか。(分からない。まだ第一稿も出来ないし、それに長そうだ。そんな体力、気力が今のお前にあるのか。うーん、分からない。)

でも、やりたい。

そう、後は、ケセラセラ(成るようにしか成らない。)

老人の暇潰し。他人に迷惑はかけないし、ねえ、いいんじゃない・・・。

かくして、今日も、カサカサ、サラサラ、「うーん・・・うーん・・・」の楽しい毎日が続く。・・・よーし、楽しもう、八十代を。

猫の呟き

「人間の夢と現実と」

人は生まれてから死に至る時まで誰でも成りたいものがある。成りたいものを持っている。(そうでない人も居るかも知れないが・・・)

私は小さい時小学校低学年まではマラソン選手になりたかった。オリンピックでザトベックという選手が大活躍で、それを見て、自分もそう成りたいと思って、しばらくは走ってばかりいた。

次に成りたかったのは「教師」。

大変憧れた。高校時代までそれは続いた。

それがどうしてどうなったのか、いつの間にか教師ではなく演劇に憧れていた。(これも色々とそうなった訳があったのだろうが、今はその訳もはっきりとは分からなくなってしまった。)

演劇分野の中でも初めは演じる事、つまり俳優に成りたかったのだが、演劇にのめり込むうちに、演出、台本にも興味を覚え、それをも勉強し始めた。そして今(老年に成った今)、俳優も、演出も、台本も、全てやりたい。やってみたい。でもやりたいと云っても若い時のように、パッパッとは出来ない。身体が、エネルギーが追い付かない。全てスロースロー。自分でもイライラする程全てがスロー。

焦っても仕方ない。これが現実。この現実の中で、さて、それをやろうとすると、自分のペースを考えて、しかも他人に迷惑をかけずに、それらをしようとすると「一人語り」となる。

そう、これなら他人に迷惑をかけずに、自分のペースでやれる。そう、これが私の今。

だから結果として、「一人語り」をやっている。そして、これからも、それをやり続けるであろう。

創る事に意欲を持てるうちは、それが面白いうちは・・・。

生きるって面白いと同時に、しんどくもあるものだ。

猫の呟き

「基礎から始めて基礎に至る」

来年公演予定(あくまで予定)の式亭三馬作「四十八癖」の江戸弁の勉強にと、図書館から落語のCDDVDを片っ端から(多分五十枚以上。これは私の凝り性をよく表わしていて、やるとなると徹底的にやる)借りて来て、聞き、観始めた。江戸弁の参考にも多少はなったが、それはもっと大切なもの、根本的なものを学ばせてくれた。それは、「語り」「一人語り」の基礎大元についてである。

CDDVDを通して多くの演者を【観、聞いて】、「上手いなあ」「凄いなあ」と圧倒される。名人、上手の作品は、間、口跡、口調が何とも言えず素晴らしくて、その上に全ての言葉、文章がはっきりとこちら(観客)に伝わってくるのである。そして、こちら(観客)が、考え、感じ、それを消化する間をきちんと作ってくれるのである。

これは当り前、当然のことである。ライブでは当り前すぎて「お前、今頃そんな事に感心して何を寝惚けてるんだよ。」と笑われるであろう。でも、「その当然、当り前の事を、あなたは本当に実践なさっていらっしゃるんですね。」と念を押されると「そりゃ、お前、その何だよ・・・」と腰砕けになってしまう。

そう、全ての本質は単純なもの。その単純な本質を忘れずにじっくりと、どこまでもどこまでも創り続ける事の土台にする、し続ける事の何と難しい事か。

只管打坐(しかんたざ)。基礎から始めて基礎に至る。

これをやり始めてから終りまで何段積み上る事が出来るか・・・。

創る事の創り続ける事の単純で、何と奥深き事よ。

ああ!・・・

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プロフィール

演劇企画「くすのき」は1988年(昭和63年)に、大多和勇、あきなんし、高塩景子の三人で結成。語り芝居という表現方法で宮沢賢治、夏目漱石、説経節作品を上演。2015年7月東京都国立市に劇団事務所移転。代表高塩景子

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