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猫の呟き 一覧

猫の呟き

「あるがまま」

読書三昧の日々を送っている。(夏目漱石全集を読了して次の具体的行動へ移動するまでの空白期間)いつもは手に取らない「日本語」関連の本や「宗教」に関連した本などを図書館で借りて読み飛ばしている。(「論語」「老子」等々)

面白い!異なった時間、世界、風景が広がる。さて、ではそろそろ次へ移行するとしよう。そう、来年度公演へ向けての具体的で、実際的な「詰め」の稽古段階へ。やる事はいっぱい有る。一つずつ、具体的に決めて、表現として定着させ、形として、科白(せりふ)として決めていかなければ。

よし!それにしても「コロナ」はいつまでたっても終着しそうにない。来年もどうなっている事やら。まさか私の八十代がこんな毎日になろうとは。

・・・・・

とにかく、与えられた条件の中で、一生懸命に生きるしかない。

そう、あるがまま。

猫の呟き

「私の古典」

「チェーホフ全集」を読了、「漱石全集」(岩波)に取り掛かる。第一巻「吾輩は猫である」第二巻「坊っちゃん」が主。面白い。えっ、こんなに面白かったの!大発見!

五月は「吾輩は猫である」全三部を公演したばかり。なのに!体調も思わしくなく、皆に迷惑を掛けながらもやり切った。私の我儘を実現させてもらった。もう十分。これで「吾輩は猫である」は御蔵入り。そう思っていた。間違いなく。その時も、そして「漱石全集」に取り掛かるまでは。

でも、今は、ああっ!やりたい。又やりたい!・・・何故・・・

たぶん、こうゆうことだと思う。

「語り」の面白さ。そう「吾輩は猫である」と「坊っちゃん」は、宮沢賢治の諸作品と同じように私の「語り芝居」の「古典」なのだと思う。そうと気が付くと、「私の古典」となった作品が他にもあった事に気が付いた。

宮沢賢治「注文の多い料理店」(序)「あすこの田はねえ」「詩」「めくらぶだうと虹」「革トランク」「虔十公園林」「なめとこ山の熊」「フランドン農学校の豚」幸田露伴「五重塔」(高塩景子のレパートリーは除く)

これらの作品は毎月前、後二回必ず洗っている。何故?公演の予定もないのに?

そう「門付け」の為に。でも「コロナ禍」の為もあり、ここ三年、そしてこの後何年かは、それも無理。でも、それにもかかわらず毎月前、後二回は必ず洗っている。

そう、これらは、私の「語り芝居」の「古典」なのだ。毎月の「洗い」を通して自分の「語り芝居」を点検しているのだ。

これからも「新作・創作」は何作品出来るかは分からないが、「新作・創作」の「語り芝居」を創り、発表して行きたい。(これも現実的には後何本・・・)

でも、「レパートリーシステム」で「くすのき」の表現を創り進めて来た私にとって、私の「語り芝居」の「古典」が果たす役割はこれからも重要な意味を持つ。(同じ作品を何度も演じる事の大切さ)今の体調、年令を考えると、これらの「古典」の発表、公演はかなり実現は困難だろう。でも、そう人生は一回。とにかく「生き切ろう」

あきらめないで、やれる可能性が有る限り、その準備はしておこう。今日から!又「吾輩は猫である」を御蔵から引っ張り出して。

まさか、こんな事になろうとは・・・。

でも、可能性が有る限り、それに向かって進む!

それが私の生きる事、人生!

猫の呟き

「さあ、どうする。どっちを選択する」

「チェーホフ全集」に取り掛っている。(現在八巻目)面白い。が暗い。中々捗らない。短編が殆どであるが、読み終ると考え込んでしまう。人間の、社会の、暗さ、狭さ、醜さ、弱さ、狡さ、汚さ、好い加減さ、意気地無さ、etcをこれでもか、これでもかと、抉り出す。冷静に。担々と。

しかし、それにもかかわらず、「だから、人間は、社会は変わりゃしないんだ。駄目なんだ」とはならない。冷静に、今を、社会を、人間を見つめ、その現実を抉り出し、逃げる事なく差し出して「さあ、あなたはどうします。諦めますか、それとも、今よりは少しはましな方へ進める為の一歩を踏み出す努力をいたしますか」と問い掛ける。

決して押し付けない。決め付けない。自分で考え、決断させる。そう自分で、それぞれ一人一人が自分で。

どんなにまだるくても、時間がかかっても、これが正解。それ以外の方法はない。これが生きるという事。読みながら、色々と考えさせられる。

さて、お話し変わりまして、「リウマチ性多発筋痛症」四月に病名が分かってから順調に回復に向っていたと思っていたら、ここに来て、突然リバウンド状態に。薬量は順調に減少していたのだが、それが少し速すぎたのか、夏の疲れの為か。ここに来て、又当初と同じ、身体中が痛み出し、動けなくなり、一週間我慢していたが、係り付けの医師に診察してもらった所、血液の数値が二週間前より三倍以上悪化しており、薬量も二ヶ月前に逆戻り。これが我が現実。

とにかく、根気よく、今の現実を受け入れて、その中でやれることを一つ一つ。淡々と。ふうーっ、老いるとは難しい事ですね。

猫の呟き

最後の勝負に向けて

「近松門左衛門」全集(岩波)「宮沢賢治全集」(筑摩)読了。

コロナ禍、外出は控え、仕事も数える程しかない状態。読書は予想以上に捗る。

二つの全集の中で八十才になった現在、演じてみたい作品は近松では「双生隅田川」浄瑠璃をどう「語り芝居」にするか。出来るか、出来ないか・・・。まあ、あるがままに。

宮沢賢治作品は無し。つまり、今日現在、やりたい作品はほとんど演じてしまった。(よくも、こんなに沢山演じたものだ!)しかも「語り芝居」で。

私の条件の中で、宮沢賢治作品の魅力を舞台化するには「語り芝居」こそ最上。よくも、この形式を創り上げたもの。我ながら、これだけは己を誉める。 次は「チェーホフ」全集(中公)へ。

私の演劇人生に最も影響を与えたのは「シェイクスピア」「近松」「チェーホフ」「夏目漱石」(舞台表現としては「つかこうへい」「ピーター・ブルック」この二人の舞台を観た時の衝撃は今でも覚えている)

今、人生の、演劇人生の、最後の勝負に挑もうとしている今、土台を確かなものとする為に、自分の芯を再度確認する為の作業。

楽しい。面白い。飽きない。沢山の発見がある。(「夏目漱石」を読了までコロナ禍は続く事でしょう。ああ!これが私の人生!)

猫の呟き

あの「大近松」でさえも

「近松全集」(岩波・全十七巻)に取組みの最中。(これも今回が最後かも)現在十巻目。全て浄瑠璃編。歌舞伎編はまだまだ先。

今回最も驚いた事は、あの天才近松門左衛門でさえも巻を重ねる度に段々と面白くなってくる。素質、才能が基からある天才でも、日々の努力、精進、勉学、稽古を重ねてのあの結果が生まれるのだ。(いや、その努力、精進、勉学、稽古こそが天才の天才たる所以なのかもしれない)

であるなら、凡人、並の私は、もしもそれが好きならば、創る面白さ、奥深さ、可能性を味わいたいのなら、当然日々の努力、精神、勉学、稽古を積み重ねるのが当り前。それが辛いのなら、創る事を辞めればよい。

好きなら努力は努力でなく当り前の日常。人生は日常の連続。日々の生活の連続。難しいようだが、とてもシンプル。

本当にあなたの欲しいものは一体何ですか。

猫の呟き

「生きる」という事

坪内逍遙訳「シェークスピア全集」(新樹社)読了。

凄い。面白い。底の見えない巨大な創造作品。今の私よりもずっと若くしてこれを創った。昔の人は今の私達よりも人生は短くても太く生きた。これらの作品は二十代では二十代での面白さを、三十代では三十代での面白さを、そして八十代になって改めて向き合ってみると「ああっ、そうか!」「えっ、こんな面白い処を、読み飛ばしていたんだ!」「おや、何でここをカットして上演しちまったんだ!」「あらっ!おやっ!まあ!」の連続。それまでは何を読んでいたのだろう。でも、人生ってそんなものかも。そう、偉大な作品、偉大な作家の創造はどこまでいっても切りがないし、読み切れない。だから何百年も読み続けられるのだ。そんな大きな作品を、無謀にも自分の身の丈に合わせて見切ろうとする。それは結果として自分の成長を止めてしまう事だ。人生をいつまでも、最後まで楽しむには、生き続ける為には、謙虚に、飽きずに、倦まずに、その日その時を大切にして、稽古、稽古、稽古。学び、学び、学ぶ努力を。

すれば人生は楽しみを、創る喜びを、決して自分を見捨てはしない。

そう、読了直後の今、以前のように安直に、これらの作品に立ち向うのが怖くなった。

どの場面も、どの人物も、面白い、魅力がある。そして、それを舞台上で生かすには、生きるには、豊かな演技力が必要。真摯な努力、弛まぬ精神、地道な稽古の積み重ねが必要。下手でもいい、正面から向き合って、当って砕けろ!それらの作品に今の私に出来る事。今の私の条件の中で、どうそれらを具体化していけるのか、はたして上演が可能なのか・・・。失敗を恐れずに正直に、全力でぶつかっていく事。

今、生きて、演劇人として生きて、生き続ける私。今、私はそれをどう具体化して行動すればよいのか。どう、舞台化するのか・・・。

難しい、しかし遣りがいのる宿題を突き付けられた。

そう、生きる事はチャレンジする事。

それが生きる楽しみなのだ。

猫の呟き

又、旅が始まりました

「吾輩は猫である」公演から八日。沢山のお客様に足を運んでいただき誠にありがとうございました。気持の整理も付き、坪内逍遙役「シェークスピア全集」を読み始めた。これで何度目だろう。(もしかして、これが最後かも)

「シェークスピア」には今まで何度も挑戦して来ました。最初は俳優学校卒業後入団した「青年劇場」の「十二夜」アントーニオの役。次は「真夏の夜の夢」のフルート役。それから「ロミオとジュリエット」のベンボーリオの役。ここまでは青年劇場時代。飛び飛びではあるが七年間ぐらいは舞台に立った。

その後は自分達で結成した劇団での「十二夜」サー・トービー・ベルチの役。ここからは全て台本作りも、演出も、私自身で。で、その時から坪内逍遙との関わりが始まりました。坪内逍遙訳の何に引かれたのか。そう、それは台詞(セリフ)が芝居の台詞として訳されているからです。

何を当り前の事をと言うかも知れませんが、これは芝居を実際に上演する者にとっては最も大切な事。理屈ではなく感性の問題なのです。

俳優学校で教えてもらい、今でも大切にしている事の一つに「台詞は歌い、歌は語れ」という基本があります。これは難しい。本当に難しい事です。でも、これは基本中の基本。これが出来てこそ、舞台は「文学」ではなく「芝居」になる。「坪内逍遙」訳はそれが土台になっている。そしてこの「台詞は歌い、歌は語れ」を土台に、「マクベス」「リア王」「十二夜」「ロミオとジュリエット」「コリオレーナス」「ハムレット」「ウィンザーの陽気な女房」の台本作りをし、演出、役創りをし、シェークスピアに挑戦し続けてきました。私はシェークスピアが好きです。大好きです。ならば、次は、そう「マクベス」を。

「一人語り」で題は「マクベス一代記」

じっくりと創り、楽しんで。その為にも坪内逍遙の面白さ、難しさを再度勉強し、それを生かし、役創り、演出の糧に。

さて、始まりました。舞台創りの旅が。無事、皆様方の前に立てるよう、体力、気力、創造力に気を付けながら、一日一日、一つ一つを楽しみながら旅を続けます。

乞御期待!

猫の呟き

巡り巡って言葉は自分の胸に

「リウマチ性多発筋痛症」に罹ってしまいました。痛くて、眠る事が出来ず、食欲もなく。一週間寝込んで四キログラム体重が減少。

服薬して痛みは無くなったが、一週間で四キログラム減少した身体がどうにもならない。朝の体操を以前の半分にしてトレーニングを始めたがまどろっこしくて、自分で自分の身体にイライライライラ。が、焦りは禁物。ゆっくりと、ゆっくりと。

そう、生きていると色々な事が出来(しゅったい)する。この状態から最高の舞台を生きる為には、さて、どうする。

以前、よく劇団員に言っていた事がある。「調子の良い時は、何もしなくても大丈夫。観客との間に、自然で最高な交流が出来ている。だらか、その流れに乗って余計な事はしない事。しかし、調子の悪い時、集中出来ない時、体調の良くない時、さあ、どうする。そういう時に、全力を振り絞って、舞台に立つ。そして『うん。まあいいか』ぐらいの評価を得る。いいね、調子の悪い時でも、来てよかったぐらいの評価を得る。それがプロ」

巡り巡ってその言葉が今自分の胸に。

そう、生は怖い。生は難しい。生は一筋縄ではいかない。だから生はすばらしい。生は輝いている。だから生に生きよう。

そう楽しもう。生きよう。今の自分の全てをかけて。

猫の呟き

程々に、でも興味を失わずに

公園でベンチに向かって芝居の稽古。と、その時、私のすぐ後ろで

「うつですか・・・」

「はっ・・・」

「鬱(うつ)ですか・・・」

「・・・いえ、鬱ではありません・・・実は芝居の稽古しておりまして・・・」

「は・・・」

「ええ、ですから、これは芝居の稽古・・・」

「・・・ああ、お芝居の・・・では鬱ではないんですね」

「はい・・・」

「・・・では失礼します・・・」

老婦人は、十分には納得しかねた顔で去っていった。

(ヒヤーッ!参った、参った。十分に注意をして、誰も居ないと思ったので始めたのだが、いや、参った、参った)外での稽古が好きなので、公園での稽古はしょっちゅうなのだが、今日は少し注意が足りなかった。もっと注意して。でないと(変な男が公園に)などと言われかねない。

稽古が大分、オーバーペースになっていたのか、あるいは体力がこの分量に追い付かなくなっていたのか、腰、尻、足にかけてのモーレツな痛み。「こんなに悪くして。もっと早く来なければ。若い、若いと思っていても年令は正直です」そう、その時、その時の状況の中で、いかに最大の創造を創りだすか。

人生の一つの曲り角を、また曲ったようだ。無理をせず、諦めず、消極的にならず、でも、もっと良い物を創りたいとの思いを失わず、毎日毎日を淡々と、しかも生きる事に興味を失わずに・・・。

それにしても、生きるって、何なのでしょう。

猫の呟き

反復がこんなにも・・・

反復がこんなにも気持がいいなんて。

五月公演予定の「吾輩は猫である」と来年公演予定の「マクベス一代記」

さらにレパートリーとして持っている「五重塔」、宮沢賢治作品八本、

「ういろう売り」を、計画に従って(多少は色を付けて)

毎日毎日、飽きもせずに、稽古、稽古、稽古。

今までの演劇人生で、自分自身の稽古の為に、こんなにも潤沢に、

時間、エネルギー、精神力を使った事は一度もなかった。

不可能だった。

それが今、可能に!

コロナ禍、年令、自分自身の心構え、人生プラン。

それら全てが組み合わさって今のこの状況を作り出している。可能にしている。

毎日の新しい試み!(ああでもない、こうでもない。

やっても、やっても、決して飽きる事のない毎日の稽古。

反復は、自分の可能性の鋤(すき)返し。

人生には、こうした幸せもあるのだなあ。

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プロフィール

演劇企画「くすのき」は1988年(昭和63年)に、大多和勇、あきなんし、高塩景子の三人で結成。語り芝居という表現方法で宮沢賢治、夏目漱石、説経節作品を上演。2015年7月東京都国立市に劇団事務所移転。代表高塩景子

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