「私の古典」

「チェーホフ全集」を読了、「漱石全集」(岩波)に取り掛かる。第一巻「吾輩は猫である」第二巻「坊っちゃん」が主。面白い。えっ、こんなに面白かったの!大発見!

五月は「吾輩は猫である」全三部を公演したばかり。なのに!体調も思わしくなく、皆に迷惑を掛けながらもやり切った。私の我儘を実現させてもらった。もう十分。これで「吾輩は猫である」は御蔵入り。そう思っていた。間違いなく。その時も、そして「漱石全集」に取り掛かるまでは。

でも、今は、ああっ!やりたい。又やりたい!・・・何故・・・

たぶん、こうゆうことだと思う。

「語り」の面白さ。そう「吾輩は猫である」と「坊っちゃん」は、宮沢賢治の諸作品と同じように私の「語り芝居」の「古典」なのだと思う。そうと気が付くと、「私の古典」となった作品が他にもあった事に気が付いた。

宮沢賢治「注文の多い料理店」(序)「あすこの田はねえ」「詩」「めくらぶだうと虹」「革トランク」「虔十公園林」「なめとこ山の熊」「フランドン農学校の豚」幸田露伴「五重塔」(高塩景子のレパートリーは除く)

これらの作品は毎月前、後二回必ず洗っている。何故?公演の予定もないのに?

そう「門付け」の為に。でも「コロナ禍」の為もあり、ここ三年、そしてこの後何年かは、それも無理。でも、それにもかかわらず毎月前、後二回は必ず洗っている。

そう、これらは、私の「語り芝居」の「古典」なのだ。毎月の「洗い」を通して自分の「語り芝居」を点検しているのだ。

これからも「新作・創作」は何作品出来るかは分からないが、「新作・創作」の「語り芝居」を創り、発表して行きたい。(これも現実的には後何本・・・)

でも、「レパートリーシステム」で「くすのき」の表現を創り進めて来た私にとって、私の「語り芝居」の「古典」が果たす役割はこれからも重要な意味を持つ。(同じ作品を何度も演じる事の大切さ)今の体調、年令を考えると、これらの「古典」の発表、公演はかなり実現は困難だろう。でも、そう人生は一回。とにかく「生き切ろう」

あきらめないで、やれる可能性が有る限り、その準備はしておこう。今日から!又「吾輩は猫である」を御蔵から引っ張り出して。

まさか、こんな事になろうとは・・・。

でも、可能性が有る限り、それに向かって進む!

それが私の生きる事、人生!