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猫の呟き

あるがまま

あれよあれよと広がるコロナウイルスの猛威によって、三月の予定表は一つ消え、二つ消え・・・いつの間にかまっ白に。そしてその勢いが四月の予定表にまで侵入して・・・。フウ、まあ人生色々、人間の小ささ、弱さ、傲慢さとつくづくと思い知らされています。

でも、こんな時こそ、自分を知り、試す良いチャンス。今遣れる事を一つ一つ確実にと、「自分のレパートリー」十作品の稽古。洗濯をいつもと変わりなく、月初め、月半ばに小宮公園で。気分転換にもなり気持良い。朝早く出かけ夕方まで、弁当、コーヒー、お菓子持参でユッタリと。さらに週一度、今回止むを得ず延期となった「起てハムレット」、七月公演予定の「むかしあったとさ」、さらには来年公演予定の「五重塔」の稽古を清水公園で。こちらは朝出かけ昼まで約三時間。コーヒーを一本妻に用意してもらい、飴三粒でOK。こちらも気分転換としては最高。さらに、さらに、朝のトレーニングに加えて、夕方三十分程度の軽いトレーニングを。これは家の近くの遺跡公園で。「精が出ますね」との御婦人方の、激励とも冷やかしとも判断しかねる声を背に受けながら黙々と。まあ、やれる事を一つ一つ確実に。それが人生、それが私・・・。まあ、こんな事も人生有るさ・・・。

図書館が閉じられたので仕方なしに家に有る本、それも長期戦を覚悟して、腰を落ち着けてじっくりと取り組める奴を見繕って。

「月間マンガ少年別冊『火の鳥』」(手塚治虫作)①~⑨をじっくりと。コマの展開の仕方、テンポの良さ、アップ、ロングのやり方の巧みさ等々、大いに演出の参考になる。それにしても何年ぶりに読んだのだろう。次に「月間マンガ少年別冊『サイボーグ009』」(石森章太郎作)①~②を。前作に同じ。文字を出さず、絵だけで勝負しようとするシーンに作者の凄みを感じる。さらに中央公論「大乗仏典」全十五巻を読了。(そんなにも非日常の時間が何の前触れもなしに与えられたという事です)日記を繰ってみると以前読んだのは2014年。こんな偶然が降りかからなければ再度目を通す事もなく終ったかも。そう考えてみればこれはこれでありがたい事かも・・・。

 あるがままに生きる

 行く河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず・・・

 空

 完成という事は、人間の、人類の歴史には有り得ない、全てこれ中途で終り・・・

 それを土台に人生を生きる。

 その中で俺は演劇という人生を選択した。

 俺はその選択を、

 つまり演劇という人生を、

 成功も、失敗も、賞賛も、嘲りも、名誉も、褒賞も、そんな何もかもを当り前の事と受け止めて、

 黙々と、喜んで、生々と、工夫に工夫を重ねて、やり続ける、やり続けられるのか。

 えっ、その覚悟、勇気、努力、体力、気力があるのか・・・えっ、どうなんだ・・・。

 やる、やります、だって、それが私の選択した道だから・・・・・。

 「大乗仏典」は読む度事に、重い課題を私に突き付ける。ありがたい事です。

次は、そう「近松全集」(岩波書店)に取りかかろう。全十七巻・・・コロナウイルスが終息して、途中でその冒険が終りになってくれればよいのだが、どうなる事やら・・・。

ああ、明日(あした)、天気になーれ!・・・・・

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教える事、教わる事

教えるという事は本当にやっかいな事だ。(私の場合は演技、創造の面での)

あれは、こうやれば、こういう練習を続けていけば、クリア出来るのに。さて、どうするのだろう・・・うーん・・・うーん・・・

そう、そんな時はこちらから声をかけては絶対に駄目。お互いプラスになる結果は得られない。

創る、演じる当人が自分で壁にぶち当たらない限り、自分で壁を経験しない限り、そしてそれを乗り越えようと意識しない限り、それを乗り越えよう、ぶち破ろうなんて行動は起こさない。起こすはずがない。だって、自分で壁にぶち当ったと自覚しない限り、自分で壁を経験しない限り、自分でそれを乗り越えようとしない限り、その人の、そこには「壁」は存在しないのだから。存在しない限り、意識しない限り、「壁」は有っても無い。当人にとっては他人事。

ああ、おしいなあ。あいつ、あのひと、もっと大きな、美しい華を咲かせる事が出来るのに・・・。

だが、それもこれもおせっかい。

そう人間一人一人に、それぞれの人生が有り、それぞれがそれに向き合う。だから、それぞれが、それぞれの人生をおもいっきり、楽しむ、自分の責任、自分の条件の中で・・・それが人間の一生。それが生きるという事・・・

それぞれが、それぞれのやり方で、人生をおもいっきり楽しもう。

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ギア・チェンジ

突然、何の前触れもなく、中央公論社発刊の「日本の名著」「世界の名著」の手元に置いてあるものを読み始めた。四十五、六年前(私の三十二、三頃)俳優学校卒業後入団した劇団を退団し、「さて、これから先どうするか」と、仲間達と勉強会やら「劇団」らしきものを作り、週何回か書店でアルバイトをしていた頃に買い揃えた全集。「世界の名著」全八十一巻、「日本の名著」全五十巻。バイトをしていた関係で少しは値引きしてくれたが、一冊千円ぐらいの本。当時の私にとっては大変な決意。それぐらい迷っていたし、何かを探し求めていたのだろう。読んで手元に残すものは残し、必要なしと判断したものは処分して、段々少なくなり、最後に残ったものが今回読み進んだ「夏目漱石・森外」「河上肇」「日本書記」「世阿弥」「道元」「法然」「親鸞」「近代の芸術論」「フロイト」「ユング・フロム」「バラモン教典・原始仏典」「大乗仏典」「聖書」「老子・荘子」「孔子・孟子」「諸子百家」「禅語録」「アリストテレス」「エラスムス・ トマス・モア」「ダ―ウィン」「プルードン・バクーニン・クロポトキン」「アダム・スミス」「マルクス・エンゲルス①」「マルクス・エンゲルス②」の二十四冊。そして読了後、手元に残ったのが「世阿弥」「道元」「法然」「親鸞」「フロイト」「ユング・フロム」「聖書」「禅語録」「アリストテレス」「マルクス・エンゲルス①」「マルクス・エンゲルス②」の十一冊。これから後、これを読む機会が後何回ある事か。そして、その後「古今亭志ん生」「立川談志」「林家三平」を読み、「ああそうだ。五月末公演の「市民劇場TAMA」の演出、演技指導のアドバイスを三月末と五月の計二回頼まれたので、その準備をしておかなければ」と原作者の「柳美里」さんの本を読み始めましたが、さあ、これが大変、見事に嵌まってしまい、この処、時間さえあれば「柳美里三昧」の毎日。自分にはまったく無い何か・・・、いや、自分の中にあって自分では気付かなかった何かを提示された驚き、そして、それは何なのかを知りたい興味・・・。とにかく今は、気持ちが一段落するまでは「柳美里」を追求してみたい、そんな今日この頃です。そう、何かが変化、ギア・チェンジしたのだと思う。七十代から八十代へのギア・チェンジ。今までもそうだった。五十代から六十代へ、六十代から七十代へ。ある時期、突然に「あれっ・・・」と思っているうちに「ははあ、そうか。チェンジしたんだ」と納得。さて、今年は七十八才。しかし昨年までの自分とは変化した自分があるはず。力まずに、あせらずに、日一日を楽しんで・・・。まず、そう三月の「起てハムレット」をじっくりと・・・。

猫の呟き

おやすみなさい、おはようございます

十二月十四日、今年最後の「研究室」(ワークショップ)があった。当初参加予定者は七名であったが、当日間際になって体調不良、急用が勃発し参加者は三名に。始まる直前にその事が分かったので、急遽予定を変更。「ぐず」を一日かけて取り組む事にする。

まずは「素読」文章をゆっくり、はっきりと分かるように読む。

次に「ピース分け」

戯曲を始めから終わりまで、話の発展、進行に従って「ピース」に分け、一つ一つの「ピース」の意味を確認していく。そして、チェーホフという作家の特長、及びその時代を簡単に説明。(チェーホフの特長、日常の中のドラマ。淡々とした《そう見える》私達の日常生活の中に潜むドラマ)そして二組に分け(一組には高塩が参加)自主稽古を一時間半。各組共、どう舞台を作るか、どういう作品にしていくかを、話し合い、行動し、又話し合い、行動し、少しずつ形が作られていく。

形が見えて来た後半「そんなに芝居っぽくなく、もっと、普通の日常会話で」とか、二人の登場人物の位置をどうするかで、作品の意味の伝わり方が具体的になるのか、あるいはぼんやりしてしまうのかが決まる等々、少しずつアドバイスを加えていく。そして昼食前の稽古の締めとして通してみる。それに対してのアドバイス。

そして昼食。

午後は私の演出で、それぞれの組が創ったものを作品に。

「各人が自主的に創り上げるエチュード」と「演出家が参加して観客の為に創る演劇」との違い、そして「エチュード」「演出家」のそれぞれの役割を説明。自主的に創る「エチュード」の大切さを伝える。

演劇は作り物です。つまりエチュードで創り上げた真実(本当)を観客に作品として伝える為には、空間と時間の芸術である演劇は、又、その日、その時、その場所で、始めてお互いに対面し、共同作業で一つの作品を創り上げる為には、その真実(本当)に、ある作為(嘘)、作り事を、効果的に使う事が必要です。そうする事によって当日初めて参加した観客にも創造に参加する為の目じるしが与えられるのです。それが舞台芸術である。「エチュード」(真実)と「演出」(作為、作り事、嘘)をどう上手く交ぜて、観客を積極的に、自主的に、又素直に、楽しく参加させられるか。

「今日、講座に参加出来て、得した!」という、参加者達の声。参加者が少なかったからこそ、こんな贅沢が出来る。でも、これでいいのか、これで続けられるのか・・・(苦笑)

そして、同じ台本を使っての、まったく異なる二つの作品が目の前に!

「先生、ダブルキャストの時はどうするんですか」

「当り前だが、役者が変われば舞台は変わったものになります。だってどちらかの演じ方に合わせろという事は、どちらか一方の創造、個性、自主性を捨てろという事でしょう。私の(大多和の)創造方法の中にはそういった考えはありません」

そして休憩後の再度の通し。一組は直前の演じ方を再現しようと後追い。演じながら戸惑う二人。

「分かったでしょう。創ったものを再現(後追い)するのでなく、一回一回、その時、その時、自信を持って創り続ける為には、自分の創ったものが、本当に自分のものになる為の、何十回、何百回もの稽古が必要なのです。でも、アマチュアで芝居創りを続けていくあなた方に、それが可能なのか、どうしたら、それがやれるのか・・・。難しい問題だが、各人が、各劇団が、それぞれ考え、試行錯誤しつつ、それを具体化していかなければなりません。でなければ、『舞台で立てただけで幸せ!楽しい!』の状況のままで、その先はありませんものね。無理、難しいかも知れないが、創る事の楽しさ、難かしさ、奥深さを味わってもらいたいのです。でも・・・」

そして、もう一組は以前の発表の上に、幾つもの新しい工夫を付け加えての熱意溢れる舞台を。が、あれもこれもで騒々しくなる。

「そうです。稽古は、特に始め頃の稽古には、前回の「なぞり」でなく、毎回毎回新しい試みを加える事が大切です。しかし、公演を向かえた稽古後半は、どうしても必要なものだけを残して、あとは捨てていく事が必要なんです。自分の創ったものを捨てるのは難しい事だが、観客にあまりにも沢山のものを押し付けては、観客は整理できずに、戸惑ったまま、共同作業に参加しなければなりません。それは損です!いいですね、稽古のいつまでは足し算を中心に、そしていつからは引き算を目標に、これが出来なければなりません。その見極め、判断が大切なのです」

そして残り一時間で「かき」と「ワーニカ」の一人語りの稽古。

「ああ、今日は面白かった」「得した!」

同感!私もそうでした。

でも・・・そうです。「研究室」を一年続けた結果、色々な事が見えて来ました。「研究室」を続ける意味は。又、「くすのき」にとっての意味は・・・。もしかして、この「研究室」は大多和個人の我儘、趣味なのかも・・・そう、そうかも・・・。

いつか、この問題の答を出す時が、出さなければならない時が来るでしょう。それはいつ、そしてどのような答が・・・。

今年も色々な事がありました。年度始めと、年末の今の状態・・・えっ、こうなるの・・・。そう、これが人生。明日は明日の風が吹く。その中で、自分自身、一生懸命、精一杯、笑ったり、泣いたり、悔んだり、自信持ったりして生きていく、生き続ける、来年も一日一日を力一杯生きます。

追伸

久し振りで、飲み物、食事、台本を沢山持って小宮公園へ。早朝から、日が陰る直前までの初冬の公園の中の私。私にとって一番素直になれて、自然体で居られる空間と時間。私って、そういう人間なんだとつくづく感じました。

猫の呟き

全身全霊全てを用いて

久し振りに子供達と舞台を創っている。

自分達で創るので、アドバイザーとして手を貸してくれとの事なので引き受けた。

六月から十二月一日の本番まで十一回。月に約二回の勝負。 

最初の頃は何人かを除いて殆どが受身。(今までの付き合いで何人かは自分で何かを創ろうとしていた。)

指導の一環として、一つの例として演ってみせる。と、その表面を真似ようとする。

「そうじゃない。自分で創ってごらん。今大多和さんが演って見せたのは、一つの例。こうゆう演り方もあるんだよというだけの事。いい、舞台は自分で創るの、台本をよく読んで、演出の言う事をよく聞いて、仲間の稽古をよく見て、皆んなで、一つの舞台を、お客さんと一緒に創るの。だから、お客さんも一緒に創れるように、ちゃんとセリフを言って、お客さんに分かるように演技をするの。自分達だけが分かっていたって駄目。お客さんも一緒に創るのだから。」

毎回毎回同じ事の繰り返し。(そう見えた。)

でも違っていた!

そう、先日の稽古事のコーラスで参加して下さる大人達の感想。

「私も子供達と一緒の舞台に何回か出演させてもらっているが、こんな自主的な子供達には久し振りです!」

そして黒子として参加しているお母さん達の感想。

「すごい!ちょっと前とはすっかり変って、皆んな生き生きとして。私も負けないように頑張ります!」

そうです。子供の自主性を侮ってはいけません。

子供達は自主性を尊重されていないので、普段は「受け身」だけが目に付くが、自主性を確保し尊重すれば、こっちがびっくりするような表現を創る。

そう、待つ事です!子供達が自分達のペースで創れるように。大人のテンポを押し付けるのは最悪!

十二月一日の発表を目指して、もう一踏ん張り!

全身全霊、自分の全てを用いて創る事の面白さを味わって欲しい!

・・・ありがとう・・・

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「創造意欲」に火が付いた

八月喜多方、九月東京での「しんとく丸」公演が、私の内部の「創造意欲」に火を付けた。稽古する事の大切さ、面白さ、豊かさ、素晴らしさ、そして「説経」を通しての「語り」の魅力を思い知らせてくれた。そして、回遊魚の私は(私の弟子が私に付けてくれた綽名)その刺激に反応して、忽ちの内に行動しはじめた。四年後以降の、自分の一人芝居の台本創りに走り出したのである。

2020年は「起てハムレット」2021年は「五重塔」2022年は「吾輩は猫である」

そう、それ以後、つまり八十一才以後のレパートリー創りに走り出したのである。

朝の体操仲間の何人かが、常々言ってくれる。「あなたは、後十年は大丈夫。いや、十五年ぐらいは現役を続けられるかな」

乗りやすい私は、すぐにそれに励まされて乗る。そう、これからは「落語」の世界も演ってみたい。そうだ、その手始めとして、以前三人で演った「四十八癖」を一人語りで演ってみよう。そう、それと「説経」の、これも以前三人で演った、「おぐり」(小栗判官と照手姫)と「さんしょう大夫」(安寿とつし王丸)も一人語りで。

そう、八十一才以後の回遊魚の挑戦目標が明確となりました。

じっくりと、しかし確実に、今の仕事を第一に考えながら、具体的作業が動き始めました。

乞うご期待!

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原点

重い、苦しい負荷を掛けて、それですらすらと台詞が出るようになって、初めて台詞は自分の物となり、舞台上でどんなハプニングが起ころうとそれに負けずに演技は出来るようになる。

それを信じ、信条として演劇活動を続けて来た。そう、以前は新作上演事によく山へ行ったものだ。「マントラをお唱えですか」と言われた事もある。

そんな以前の自分がふっと頭を過り、先日陣馬山から高尾山への縦走を試みた。

AM3時30分起床。前日用意した物をリュックに詰め込み朝食(パン、コーヒー、茹で卵、ヨーグルト)時間が余ったので私のレパートリー作品の内「外郎売り」「注文の多い料理店・序」「あすこの田はねえ」「構成詩(永訣の朝、松の針、無声慟哭、雨ニモマケズ)」「めくらぶどうと虹」を当る。ボソボソとしかし考えながらじっくりと。AM5時34分のバスでJR八王子駅へ。そこから6時6分発高尾行きの中央線で高尾駅へ。そして高尾駅北口より6時18分発陣馬高原下行始発バスに。乗客は私を入れて5名(平日だったからかも。休日だったら登山客でもっと混んだであろう)車中で「革トランク」をボソボソと。誰も気に留めても居ない様子。ありがたい。6時52分陣馬高原下着。終点までの客は3名。2名のカップルは他へ行くとみえて、陣馬山へは私一人「五重塔」(2021年春初演予定)を稽古。誰も居ない山中。かなり大声で。気持良い。幸田露伴の名文と山中に唯一人という雰囲気に自分も酔ったみたいだ。8時15分に完了。約1時間30分。家で稽古している時とは20分程長い。山を登る速度が台詞の言い方に影響を与えたのだろう。8時25分陣馬山頂に到着。私一人。水を飲み、バナナを食べて休んで居ると一人又一人と3名の登山者が。曇っていて見晴しは悪い。8時45分「起てハムレット」(来春公演予定)を稽古しながら一路高尾山へと出発。泥濘んだ路、倒木などがあって歩き辛い。この間の台風の影響が。(この状況は高尾山まで続いた)9時25分明王峠へ到着。(この間約10名程の登山客と擦れ違った)9時35分「起てハムレット」完了。(大声で喋ったり、人の気配がすると声を落したり)9時40分「むかしあったとさ」(来夏公演予定)の稽古を始める。途中堂所山で関場峠方面へ行く84才の職人(板前)さんに会った。今日の山行のハイライト。そう、人生って思いがけない時に、思いがけない方法で一期一会を演出してくれる。さて、その方は三ヶ月前に奥様に先立たれ、ボンヤリと毎日を過していたが、これではいかんと少し前から外に出るようになったそうだ。その方が私にポツリポツリと話して下さいました。「71才まで店をやっておりましたが、それからは妻と二人で第二の人生を過そうと・・・そして春、秋の年二回、利根川の天然うなぎをメーンに、それまでお世話になったお客様をお招きして食事会を(無料で!)しかし、3.11の福島原発事故で「利根川のうなぎ」も汚染して使えなくなったのでそれも出来なくなり・・・。はい、私共には子供は有りませんので、妻は樹木葬を希望しておりましたので、その希望通りに。しかし、私はそう、利根川にでも散骨してもらえば。しかし、それもどうなる事やら・・・。そうです、生きている間はしっかりと、ちゃんと生きなければ、そうすればちゃんと死ねるんです・・・。では、又どこかでお会いしましょう・・・」(ありがとう、沢山の沢山の勇気、希望、夢、エネルギーを頂きました。私も、演劇をしっかりと創り、演じられる様に生きます)10時45分「むかしあったとさ」完了。11時5分景信山到着。昼食(持って来たトマト、キュウリのおいしかった事!)11時50分「虔十公園林」を稽古しながら出発。0時35分PM「虔十公園林」「なめとこ山の熊」完了(この頃から登山者もひっきりなし。従って台詞もボソボソと)0時40分「フランドン農学校の豚」を稽古。0時45分小仏峠、1時5分城山到着。(ここいらはもう大変な人々々!)大休止。水、食料をしっかりと採る。1時20分「フランドン農学校の豚」完了。「吾輩は猫である、第一部」を稽古しながら出発。2時45分高尾山頂に到着(人に聞かれない様にボソボソと)同時に「吾輩は猫である、第一部」完了。「吾輩は猫である、第二部」を稽古しながら出発。(さすがに疲れた。しかし足はまだシャンとしている)ゆっくりと下山。3時45分高尾山口駅に到着「吾輩は猫である、第二部前半」終了。今日はここまで(疲れた!)。3時55分発の電車に乗って5時頃帰宅。風呂に入り、夕食(大好物のカレーライス)を食べ「日本対ロシア」のラグビーをテレビ観戦。再度入浴後10時10分頃就寝。

翌日AM4時起床。5時より日課の公園でのトレーニング。いつもの生活が始まった。そう昨日と同じようないつもの今日が。それにしても昨日はAM3時30分から3時50分PMまで約12時間、よくぞ集中を切らさずに稽古(点検)が続けられたものだ。そう、私は本当に芝居が好きです。好きで好きでたまらないのです。これからもコツコツと一歩一歩楽しみ創り続けます。そんな自分を再確認出来た一日でした。職人(板前)さん、私もあなたに負けないように80才になっても、90才になっても、自分の好きな演劇を創造して、ちゃんと、しっかりと生き続けます!

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「稽古は裏切らない」

九月七日(土)「しんとく丸(弱法師)」の公演があった。この作品は八月の福島県喜多方発21世紀シアターで上演したもの。おかげ様で良い評価を得ました。しかし、「もっと良いもの」を常に目指すのがプロ。その意欲が無くなった時は、引退するか又はアマチュアで楽しめば良い。

前日仕込み後稽古をし、当日朝八時に会場入りして八時三十分より稽古。良い出来だ。しかし、後半が少し弱い。後半をもっと仕上げれば数段良い舞台になる。さて、どうする。公演当日ともなると、やるべき仕事は山程有る。「写真撮影が終ったら、後半ちょっと稽古するか」「私も後半決ってない所があるもんで、稽古してもらおうと思っていたんです」「よし、では・・・」そして撮影開始。が、なかなか終わらない。芝居はどんどん進んでいく。そして後半「よし、そこからは止めながら稽古するよ」そして客入れ時間を気にしつつ、しつこく、じっくりと稽古。数段良くなっていく。「決ってなく、不安に思っていた所が分かりました」

そう、舞台は役者が自分で考え、創り、生きる所。演出はそのお手伝い。だから自分で納得出来るまで、とことん稽古を。次の次の日、台風一過の早朝、公園での体操をしながらの観に来て下さった方達の感想「よかった!」「素晴らしい!」「病後なので家内にも息子にも観に行く事を反対されたのだが、行って良かった。パワーを貰いました」「すごい迫力!」

ありがとうございます。励ましのお言葉素直に頂いて、これからの公演の糧にさせていただきます。

そうです。稽古は自分を、観客を裏切らない。嘘を付きません。

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耕して、耕して、耕し続けて

ここ何ヶ月か、演劇と直接関係のない本を又読み始めた。そういう余裕が、ゆとりが、隙間が、私の中に出来たのだろう。「夏目漱石」「河上肇」「日本書記」「世阿弥」「道元」「法然」そして今は「親鸞」を読んでいる。どれも、これも、今までに何回も何度も読み直した本。私が私である事に、それぞれの仕方で多大な影響を与えた本である。「ふーん、成程」「うん、面白い」「うん、そうだ、そうだ、その通りだ」「えっ、そうかな」今回も様々な反応が私の中に生まれる。勿論、私は演劇を生業としている人間、だからどれもこれも当然そういう読み方をするし、又そのような読み方しか出来ぬ。

面白いと思ったのは、以前は「法然」「親鸞」に引かれていた私が、今は「道元」に引かれている事。両方共に私に影響を与えたからこそ、今まで何度も読み直し、手元に残しているのだが、でも、こんなにも両者への共感が以前と違うとは。そう、今の私は「人間、ジタバタして、自分の面白いと思った事、興味を持った事、やりたいと思った事を、自分流に、自分の責任でもって創り続ける。それが私の人生。様々な人達、意見から、様々な影響は確かに受ける。でも最後は自分。私がやりたい事、面白いと思った事、興味をもった事を、自分流に創る。創って、創って、創り続ける」

土台を耕す大切さ。演劇に直接関係なく見えるが、「何故生きるか」それこそが人間の、人生の土台。その土台の上に演劇は成り立つ。土台を耕す事の大切さ、面白さを改めて感じる。

これも、ゆとりの余裕の成せる業か。

猫の呟き

非日常の大切さ

先日、五年振りで「喜多方発21世紀シアター」公演に「説経節しんとく丸(弱法師)」に「生音係」として舞台に立った。ここ四年は高塩景子を中心とした公演を組み、毎回参加させていただいている。

五年前といえば七十二才。まずこの五年間における自分の体力の衰えに、今更のように驚いた。そう、日常を離れ非日常に立ってみると、「現実」が隠す事なく自分の眼前に現われる。「お若いですね。いつまでも変わりなくおうらやましい」は日常の自分に対しての評価。非日常に立ってみると「お若い」「いつまでもお変わりなく」なんてとんでもない。そう、毎日毎日を、その時その時を、手を抜く事なく表現者として生きる事。その根本を物の美事に分からしてくれる。

又、非日常は自分の強張り、ストレスをやんわりと解きほぐしてくれる。

朝、目を覚ましホテルの部屋でストレッチをして、それから徐に朝風呂を。普段なら絶対にない時間、行為。

何とも言えない気持。もしかしたら、これも「無」の一部分かも。ああいい。たまにはこうした時間を意識的に創りたいものだ。

さらには朝ラー(朝食ラーメン)。これが何とも旨い。が、私には少々腹に応える。これも非日常であるからしみじみと味わえるのであって、これが日常となると、私にはやっぱり無理。でも、日常の中にこうした変てこな非日常を取り入れるのはやっぱり面白い。

そして蔵を用いての演劇。私という人間は、こうした場面に遭遇すると、途端にエネルギーが全開。面白い、とにかく面白い。演劇を人生として選択して良かったとつくづくと思う。創造力が次から次へと飛び出してくる。

そして、そうした創造が一段落した後の、何とも言えない、長閑さ、ゆったりとした時の流れ、風の戦ぎ。それを許容する風土人々。

そう、突っ走り、闘い、目の色変えるだけが人生じゃない。たった一度の人生、様々な自分を生きたい。そう日常も、非日常も、共に自分。楽しもう、面白がろう、人生を。

今度の公演は、忙しさにかまけていつの間にか影に追いやっていた色々な自分を思い出されて目の前に示してくれた旅でした。

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プロフィール

演劇企画「くすのき」は1988年(昭和63年)に、大多和勇、あきなんし、高塩景子の三人で結成。語り芝居という表現方法で宮沢賢治、夏目漱石、説経節作品を上演。2015年7月東京都国立市に劇団事務所移転。代表高塩景子

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