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猫の呟き

耕して、耕して、耕し続けて

ここ何ヶ月か、演劇と直接関係のない本を又読み始めた。そういう余裕が、ゆとりが、隙間が、私の中に出来たのだろう。「夏目漱石」「河上肇」「日本書記」「世阿弥」「道元」「法然」そして今は「親鸞」を読んでいる。どれも、これも、今までに何回も何度も読み直した本。私が私である事に、それぞれの仕方で多大な影響を与えた本である。「ふーん、成程」「うん、面白い」「うん、そうだ、そうだ、その通りだ」「えっ、そうかな」今回も様々な反応が私の中に生まれる。勿論、私は演劇を生業としている人間、だからどれもこれも当然そういう読み方をするし、又そのような読み方しか出来ぬ。

面白いと思ったのは、以前は「法然」「親鸞」に引かれていた私が、今は「道元」に引かれている事。両方共に私に影響を与えたからこそ、今まで何度も読み直し、手元に残しているのだが、でも、こんなにも両者への共感が以前と違うとは。そう、今の私は「人間、ジタバタして、自分の面白いと思った事、興味を持った事、やりたいと思った事を、自分流に、自分の責任でもって創り続ける。それが私の人生。様々な人達、意見から、様々な影響は確かに受ける。でも最後は自分。私がやりたい事、面白いと思った事、興味をもった事を、自分流に創る。創って、創って、創り続ける」

土台を耕す大切さ。演劇に直接関係なく見えるが、「何故生きるか」それこそが人間の、人生の土台。その土台の上に演劇は成り立つ。土台を耕す事の大切さ、面白さを改めて感じる。

これも、ゆとりの余裕の成せる業か。

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非日常の大切さ

先日、五年振りで「喜多方発21世紀シアター」公演に「説経節しんとく丸(弱法師)」に「生音係」として舞台に立った。ここ四年は高塩景子を中心とした公演を組み、毎回参加させていただいている。

五年前といえば七十二才。まずこの五年間における自分の体力の衰えに、今更のように驚いた。そう、日常を離れ非日常に立ってみると、「現実」が隠す事なく自分の眼前に現われる。「お若いですね。いつまでも変わりなくおうらやましい」は日常の自分に対しての評価。非日常に立ってみると「お若い」「いつまでもお変わりなく」なんてとんでもない。そう、毎日毎日を、その時その時を、手を抜く事なく表現者として生きる事。その根本を物の美事に分からしてくれる。

又、非日常は自分の強張り、ストレスをやんわりと解きほぐしてくれる。

朝、目を覚ましホテルの部屋でストレッチをして、それから徐に朝風呂を。普段なら絶対にない時間、行為。

何とも言えない気持。もしかしたら、これも「無」の一部分かも。ああいい。たまにはこうした時間を意識的に創りたいものだ。

さらには朝ラー(朝食ラーメン)。これが何とも旨い。が、私には少々腹に応える。これも非日常であるからしみじみと味わえるのであって、これが日常となると、私にはやっぱり無理。でも、日常の中にこうした変てこな非日常を取り入れるのはやっぱり面白い。

そして蔵を用いての演劇。私という人間は、こうした場面に遭遇すると、途端にエネルギーが全開。面白い、とにかく面白い。演劇を人生として選択して良かったとつくづくと思う。創造力が次から次へと飛び出してくる。

そして、そうした創造が一段落した後の、何とも言えない、長閑さ、ゆったりとした時の流れ、風の戦ぎ。それを許容する風土人々。

そう、突っ走り、闘い、目の色変えるだけが人生じゃない。たった一度の人生、様々な自分を生きたい。そう日常も、非日常も、共に自分。楽しもう、面白がろう、人生を。

今度の公演は、忙しさにかまけていつの間にか影に追いやっていた色々な自分を思い出されて目の前に示してくれた旅でした。

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先日「くすのき演劇研究室」第一回の稽古があった。

昨年11月の第一回目「ワークショップ」を皮切りに、月一回「演劇創造の基礎」(自分で創る)を八回重ね、そのまとめとして「それぞれの条件の中で自分が創る」を基本に、各自がそれぞれ自分が創りたい作品を持ち寄って(二十~三十分以内の作品)十月まで、月一回計四回で、それぞれの創ったものを「発表」し、その中で何かを次の創造への糧にしようという「試み」である。

「今日は五人の方が参加しました。正直言って、こんなにも参加者があろうとは想像していませんでした。精々二~三名だろうと思っていました。うれしい驚きです。今日参加出来なかったが参加したいと作品を提出した方が一名、自分達の公演修了後参加を希望している方が一名おります。うれしいです。元気が湧いてきます。以前からやりたいと思っていたワークショップ、入門編でなく、自分の可能性、創造力の拡大を目標にしたワークショップを、こんなにも多くの方が面白いと思って下さり、その「まとめ」の「試み」に参加して下さるなんて・・・。ありがとうございます。改めて今回の目的を確認しておきたいと思います。今回の「ワークショップ」は月一回、十月まで計四回、その条件の中で各人の持ち寄った作品を稽古し「発表」したいと思います。皆さんは自分の作品を当り前ですが予習して来ています。それを今日まずやっていただき、それから私と一対一で稽古します。他の方々はそれを観ていて下さい。やる方は勿論ですが、観ている方も多くの事を学べると思います。そして今日やった稽古を次回までに、あなた方の条件の中で復習する事でしょう。復習しなければ、今日の稽古は流れ落ちて、自分の物にならず、お金も、時間も無駄になってしまいます。この予習、一対一の稽古、復習で一クール。それを四回やります。すると、その条件の中で出来た物(自分の物になった物)と出来なかった物がはっきりとするでしょう。さあ、その次が、このワークショップの目的です。何故出来たのか、何故出来なかったのか。それを自分の条件の中で考えて、では、出来る為にはどうすればよいのか、又それは本当に今の条件の中で可能なのかを考える。そしてそれを自分の劇団活動、社会生活の中で生かしていく。今回のワークショップの目的は唯その一点です。私にとっても、こうしたワークショップは初めてです。興奮しています。ドキドキしています。よろしくお願いします」

そしてすぐに各人それぞれ九十分の稽古が始まった。「面白かった」「九十分があっという間だった」「難しいけど、やり方の取っ掛かりが掴めたので、やってやろうじゃないかという気になった」「レジメを全部取ったので、もし希望があれば後でコピーをしてさしあげますよ」

一人一人の稽古の間の休憩は五分間。お昼休みは三十分。高塩が用意してくれた大鍋の豚汁も、キャラ蕗も全員で完食。今回のこの「試み」で何が出来るか。何が起こるか。とにかく私も含めて、各人にとって面白い挑戦になる事は間違いないワークショップ初日となった。

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先日、久し振りに(そうです十年振りです)学生達との授業を体験した。与えられた時間は九十分。この条件の中で創る事、自分を表現する事の面白さ、豊かさ、奥深さをどこまで面白がってもらえるか。欲張っても仕方ないのでシンプルに、舞台という狭い、しかも観客席に固定された人間を相手にその想像力(創造力)をどう刺激する事が出来るか。そこに中心を据えて準備した。当日授業に参加した学生は五十余名。かなり沢山の人数だ。

「今日は。日本には一期一会という言葉があります。(国際交流で外国の学生も沢山参加している)私とあなた方がこうしてお逢いするのも多分今日一回限りだけだと思います。その今日の一日を楽しく、お互い逢って良かったと思われるような、そんな一日にしたいと思います。よろしく」との私の挨拶で私の授業は始まった。「演劇は幕が開いてから閉じるまでの時間内で何かを創り、それも観客と一緒に創り上げるという時間の芸術です。それともう一つ、この狭い空間内ですべてを創り上げる、空間の芸術です。アップする事もロングで引いて遠くから全てを観てもらう事も出来ません。そこで今日は、この空間を使うという事から始めたいと思います。あなた、立って、あそこに行ってくれませんか。ありがとう。次はあなた、あそこに行って後ろ向きに坐ってくれませんか。ありがとうetc。今までは全て一人の人間にやっていただきました。その事を沢山の人間にやってもらうとどうなるでしょう。そうなんです。沢山の人間がそれをやると、一人でやっているのとは違ったメッセージを送る事が出来るんです。では、今やった事を参考にして、私の提出する課題を舞台上に創って下さい。では最初は希望。ありがとう、次のグループも同じ希望を。はい、ありがとう。では次は絶望。そう皆が絶望するよりも、どこかに絶望とは異なった表現がある方が絶望が際立ちますよね。はい次は・・・」次から次へと課題を提出したが、やらなかった学生。グループは一つも無し。この積極性、行動力、なぞらないで自分を出す豊かさ!すごい。たいしたものだ!学生達のエネルギーに刺激されて、私の方でも増々エンジンがフル回転!そして「皆さん『ロミオとジュリエット』という作品御存知ですか。知らない方も何人か居ますね」そこで『ロミオとジュリエット』を説明して「では十五分でその『ロミオとジュリエット』の予告編、そう二分か三分の予告編を創って下さい。時間は十五分。いいですね。是非『ロミオとジュリエット』を観たいという予告編を創るんですよ。」そして広いけど五十余名の学生達には狭い会場は熱気でムンムン。さぼっている学生は一人も無し。「五分延長します。後五分したらこちらのグループから発表してもらいます」そして発表。すごい!たった二十分で自分達のものを創っている。「そう、社会に出ると、明日までに、一週間で、一ヶ月でと期間を決めていろいろなものを創る事を要求されます。あなた方は、たった二十分でこれだけのものを創り上げました。時間をかければもっともっと良いものを創る事が出来ます。しかし、今ある条件の中で何かを創る、それが基本です。それをやりとげた今日の自分に誇りを持って下さい。そしてこれからも今ある条件の中で自分を生かし創り続けて下さい。一期一会、今日は本当に楽しかったです。ありがとうございました」

若者よ、ありがとう。創る勇気、喜びをあなた方からいただきました。

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爽快な疲労感

久し振りで爽快な疲労感を味わう事が出来た。昨年11月から始めた「ワークショップ」(月1回AM9~4:30PM)も今回が7回目。秋からの参加者は自分達の公演に向けての稽古の為に、ワークショップ参加者は段々と少なくなっていって今回は5名。しかし、そうした条件の中でも、この「ワークショップ」に参加しよう、したいという5名の方々には感謝の気持ちと、この「ワークショップ」を必要としてくれているその想いに対して、具体的な行動でもって何としてでも答えたいという気持で、こちらの熱意もいよいよ高く、熱くなってくる。

 私の考える演劇の基礎

○自分の身体、声を材料とする

○その材料が今、どういう状態にあるのかをワークショップを通して、自分で確認する

○その状態は、演劇という形のものを創り上げるに充分な状態にあるのか、そうでないとすれば、どこをどう改善し、鍛え上げていけばよいのか、又その改善、鍛え上げ方の方法は

○自分の条件(時間、仕事、生活状態etc)を客観的に知る事。今、自分が演劇に関わるのは、その条件の中で関わるのである。従って、そのやれる事、やれない事を見極めて、やれる事を具体的に推し進め、やれない事はあきらめる

○自分の感情と冷静な判断とのバランスをとりながら、創りつつ、そのバランスをコントロールしていく事

○読む事、分析する事、推理する事の大切さ

○仲間の稽古を観る事を通して、自分を豊かにする事

箇条書きにすると以上のような事になると思います。今回と次回(来月)はその復習。つまりこういう事を、私達はワークショップを通して、体験し、試み、学んで来て、それを次へどう繋げていくか。それを確認し、再度試み、チャレンジする。5人でしたので理想的な形でやる事が出来ました。

芸事、創る事の学び、試み、体験は、マンツーマンが理想だと思います。今回は図らずも端折らずに、ゆっくりと、たっぷりと、それをする事が出来ました。たとえば同じ課題を、それぞれ各自が1人でやると面白い、独自的な、個性溢れた創造が出来るのに、集団で創ると何故、ありきたりの、没個性の、なぞったものになってしまうのか。1分余の課題を、1時間30分ぐらいかけて、全員が納得するまでやれました。

面白かった。勇気をもらえた。自信が持てた。でも、終った後、どっと疲れを感じた。

でも、それは爽快な疲れだった。久し振りで爽快な疲労感を味わう事が出来た。

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高尾、陣馬迷走記

先日、久し振りに高尾山から陣馬山まで縦走した。しかし、その迷走振りたるや、自分でも驚く程。

AM5時40分に家を出た。同47分のバスで八王子駅へ。

そこから前もって調べておいた、①番のバス停より6時18分発陣馬高原下行きのバスに。と思いきや、陣馬高原下行きのバスなんて無し。

少し慌てたが、気を取り直して、バスの案内板で確認作業。が、陣馬高原下行きのバスなんてどこにも無し。

先ほどよりもう少し慌てて、駅前交番に飛び込む。交番のお巡りさんは丁寧に、何度も、何度も調べてくれる。その間に、時間は過ぎていく。前よりも、もっと慌てる。やがてお巡りさんの結論。「ありませんな。陣馬高原下行きのバスなんて有りません」そんな馬鹿な。以前、他所に住んでいた時に、ここ八王子から何度も陣馬高原下行きのバスに乗って縦走してるんだ。「もしかして、京王八王子から出ているのかも。そこへ行って調べてみたら」そこで止むを得ず歩いて京王八王子へ。

が、陣馬高原下行きのバスは無し。

が京王高尾を通るバスが有り、それが5分後に出る。それに乗る事に決めた。そして京王高尾から高尾山口へ。降りてトイレへ。そう、落ち着くにはトイレが一番。水を少し飲み歩き出す。

前を歩いていた二人連れが左折したので私もそれに倣って左折。きつい、本当にきつい。前を歩いていた二人が休んでいたので「やあ、きついですね。高尾山て、こんなにきつかったですかね」と話しかけたら「ここは稲荷山コースと言って、高尾山の色々なコースのうちでも一番きついコースです」との答え。私のおっちょこちょいは、いつになったら直るのやら。「馬鹿は死ななきゃ直らない」広沢虎造師匠がお答えになっている。フーフー言いながら頂上へ。一息着いて、バナナを食べて、お茶を飲んで歩き出す。本当にバテたが城山へ。山桜の花吹雪。「ああ、来てよかった」又バナナを食べて、持って来たフランスパンとチーズと納豆とコーヒーで軽い食事。「本当に、本当に、あなたに逢えてよかった」と山桜に感謝。何百分の一か、西行になった心持。ベンチにゴロリと横になり昼寝。どのぐらい寝ていたのか、目を開けるとまっ青な空が。「あー、山はいい!」気分一新、歩き出す。小仏峠を通り景信山へ。そういえば稲荷山コースで逢い、高尾山頂で再び逢った二人が言っていたっけ。「えっ、陣馬山まで縦走なんて、絶体無理。悪い事は言わないから途中で降りなさい。そうだ、景信山が丁度半分ぐらいだから、そこで降りなさい。そこで降りて小仏峠のバスで帰りなさい」その景信山がここ。でも、まだ大丈夫みたい。又々、バナナを食べて、フランスパン、チーズ、納豆、コーヒーで食事。気分一新(私は食べると気分一新出来るらしい)歩き出す。堂所山、明王峠。ここで小休止。気分一新。そしてついに陣馬山に到着。380度の見晴し。気分最高!草原にどっかりと腰をおろし、登山靴も脱ぎ、シャツも脱いで、ゆっくりと汗を拭き、ただただボンヤリと。無念夢想。唯々風、日光に身体を任せて。そして、ゆっくりと最後の食事を。(内容は以前とまったく同じ)のんびりと休んでバスの時刻表を見ると、2時25分PMのバスに間に合いそうだ。気分一新下山。

バス出発5分前に到着。汗臭いシャツ、下着、タオルを新しいものに替えて乗車。約40分ぐらいで高尾駅へ。「そうだ、序でだから八王子の街並みでも見て帰ろうか」と西八王子駅行のバスへ。そして西八王子駅から又バスを乗り換えて、バス停からゆっくりと歩いて我家へ。5時5分前。約11時間に渡る、迷走、珍道中であった。

追伸

後で聞くと、八王子駅からの陣馬高原下行のバスは、今はもう無いそうである。

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先日、府中芸術の森小劇場で、モダンダンスを観劇しました。他のジャンルの作品を観る事は、劇場作品を客観的に観る事が出来て、大変勉強になります。

その舞台を通じて二つの事を痛感させられました。一つは「間」の大切さ、豊かさをつくづくと思い知らされた。上手な踊り手作品は「間」が絶妙だ。動いて、動いて、動きがふっと止む。下手な踊り手は、そこで動きが止まるだけ、その「間」には意味がない。ただ止まっただけ。しかし上手な踊り手の「間」は、これから先の躍動を予感させる何かが宿っていて、休止が、ただ止まっているだけでなく、次の何かを期待させる。停止以上の何かが宿っている。

他山の石、大いに考えさせられました。

二つ目は、難しい高度なテクニックの踊りは、それはそれで面白い、すごいと思う。しかし、ちょっと観ると簡単な振り付けで、もしかしたら私でも踊れるんじゃないかと(冗談でしょう!)思わせるようなダンスで、観ている人をどんどんと舞台に引き込んでいく。

すごい!単純が観客の創造力を刺激して、踊り手と観客が一体となって次から次へと想像の世界を拡げていく。

そんな、あんな舞台を、私も創りたい。演じたい。そんな役者になりたい。

舞台って、創造って、人生って、面白いし、奥が深いですね。

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一月二十六日、二月十六日とふた月続けて高塩家の居間で「門付け」をした。一月は「革トランク」「虔十公園林」「あすこの田はねえ」二回目は「フランドン農学校の豚」「めくらぶどうと虹」

初めての「試み」色々な体験をし、多くの事を学んだ。

私は、自分のレパートリーとして「注文の多い料理店・序」「あすこの田はねえ」「構成詩 永訣の朝・松の針・無声慟哭・雨ニモマケズ」「めくらぶどうと虹」「革トランク」「虔十公園林」「なめとこ山の熊」「フランドン農学校の豚」「吾輩は猫である 第一部・第二部・第三部」(全部を通しで上演すると五時間近くかかるので三部に分けている)を持っている。三月の「門付け」で「注文の多い料理店・序」「なめとこ山の熊」を演じるので「宮沢賢治作品」は「構成詩」以外は全部演じた、演じる事になる。

ありがたい事である。

しかし、だからこそと言った方が良いかも知れないが沢山の事実、問題点に出っくわした。

緊張の為か、老齢の為か、とにかく口の渇きが甚だしい。始まって五、六分すると口中がカサカサになる。いつもは何でもなく言えていたセリフが突然出てこなくなる。

(毎月、前半、後半と月二回自分のレパートリーはお浚いしているのだが、そしてその時も出てこないセリフも有るには有るが、そんなに狼狽えはしない。たぶん、お浚いという気安さもあるし、緊張感も全然違うし、台本を手にしているので狼狽えないのであろう。又、水も口が乾けばすぐ口中に含むので、そんなに気にしないで浚っているのであろう)

そんな中、今回二回の「門付け」で突き付けられたそうした数々の新たな問題。それは、今までの何十回もの上演を追いかけ、なぞるのでなく、今の自分の現状の中で、自分のレパートリーを毎回毎回新しく創り続けていく事が出来るのか、可能なのか・・・。

当り前だが、演劇は毎回毎回、その場で、観客と共に新たに創っていくものである。それは当然の事であり、そこが映像との決定的な違いである。

しかし、同じ作品を何年も、何十年も上演して来たものを、演出も、演者も私である私が、それを今の自分を生かして、観客の共感を得られるように、これからも創り続けられるのか・・・。

以前は体力の有るうちは、それまでと同じ演出での、リズム、テンポの演技が舞台が何の苦もなく創る事が出来た。

が、今は・・・。

今の私は、もう以前の私ではない。そう以前より成長した所もあれば、以前のようには出来なくなった動けなくなった所もある。当然である

ならば、二十年演っていようと、三十年演っていようと、同じ作品ではあるが、今、毎回毎回「新作」としての心構えと熱心さを持って、そのレパートリー作品に向い合い、創り続ける事が出来るのか。そして、それがその作品の、演者の魅力を、新しい演出、演技で新たに創り出す事が出来るのか。

そう、何十年演じ続けようと演劇はいつもいつでも一回勝負。その日、その時が運命の別れ目。今の自分に、それを当り前の事として創り続ける、体力、気力、創造力、ひらめき、そうしたものがあるのかどうか・・・。

創り続ける為には、上演し続ける為には、その当然を、当然の事として受け取る、私自身の、体力、気力、創造力、好奇心、冒険心、ひらめきが必要だ・・・。

ようし、やる、やるぞ!絶体に!

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先日、第一回目の「門付け」をした。(以前に似たような事は何回かしたが、それはあくまで「くすのき」公演の一環であって、今回のような意図を持った「門付け」とは異なっている)

終ってまず心に浮んだのは「いつもの公演と、そんなに違ったものではない」という印象。目と鼻の先に観客が存在する。こちらの演技を観ている目力、呼吸の音までが手に取るように目の前にある。それはいつもの「公演時」の何倍もの存在として目の前にある。しかし、私と「観客」とのキャッチボール。共同作業は今までの「公演」とまったく同じ。私の集中力、創造意欲、働きかけと、「観客」の集中力、創造意欲、働きかけとの真剣勝負。

しかし、又、大きな違いをも感じた。その真剣勝負が一対一の勝負。つまり「観客」という固まりとの勝負、共同作業ではなくて、私と、そこに参加して下さった一人一人との真剣勝負、共同作業である事。

「だって、それは同じでしょう。それは「公演時」だって一人一人との勝負、共同作業ですよ」

たしかに「建て前」としては、その通り。しかし、「門付け」の時の一人一人との勝負、協同作業とは同じではない。はっきりと違っています。

その同じで、違うものを、どう区別し、統一していくか。第二回目からの一つの課題として、私の内に残りました。

濃い、密度の高い、共同作業の時の流れ、それはまったく強烈な印象を、私にあたえました。「また、あの強烈な時間を体験したい」第一回目を終了した、わたしの偽らざる感じです。

第一回に参加して下さった方々、それを準備して下さった方々、本当にありがとうございました。又、いつの日か、よろしくお願いします。

猫の呟き

今年の私の最大イベントは「くすのき」三十周年記念公演であった。

三十年の大半を、代表者、作者、演出家、製作者として過ごして来た。三年前に代表が高塩景子に変更しても、その影響は心のどこかに残っていた。

しかし、三十周年記念公演終了後、それは見事な変化を遂げた。三十周年後の「くすのき」は今までの「くすのき」では有り得ない。当然の事ではあるが、その事実を目の前に突き詰められた。学校公演、子ども劇場その他の巡回公演はなし。つまり、営業としての公演は無くなったのである。となると、残るのは、そう、春秋、二回の公演を中心とした劇団活動となる。それも、その作品を営業として、積極的に売り込んでいく公演としてでなく、しかし、その作品は、プロである以上「商品」でも有る。それは、三十年の大半を作品=商品として創って来た私にとっては、自分の内部を大きく変更しなくてはならぬ、大変化である。

さて・・・さて・・・。そして徐々にではあるが動き始め出した。何かが、そう何かが・・・。それが明確な形、行動に成っていくのが来年以降であろう。

そう、新しい「くすのき」、新生「くすのき」大多和勇、高塩景子の創造者としての魅力を土台に、新しい創造を生み出す「くすのき」

三十周年記念公演が成功裏に終った今、それが静かに、確実に、動き始めた。

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プロフィール

演劇企画「くすのき」は1988年(昭和63年)に、大多和勇、あきなんし、高塩景子の三人で結成。語り芝居という表現方法で宮沢賢治、夏目漱石、説経節作品を上演。2015年7月東京都国立市に劇団事務所移転。代表高塩景子

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