非日常の大切さ

先日、五年振りで「喜多方発21世紀シアター」公演に「説経節しんとく丸(弱法師)」に「生音係」として舞台に立った。ここ四年は高塩景子を中心とした公演を組み、毎回参加させていただいている。

五年前といえば七十二才。まずこの五年間における自分の体力の衰えに、今更のように驚いた。そう、日常を離れ非日常に立ってみると、「現実」が隠す事なく自分の眼前に現われる。「お若いですね。いつまでも変わりなくおうらやましい」は日常の自分に対しての評価。非日常に立ってみると「お若い」「いつまでもお変わりなく」なんてとんでもない。そう、毎日毎日を、その時その時を、手を抜く事なく表現者として生きる事。その根本を物の美事に分からしてくれる。

又、非日常は自分の強張り、ストレスをやんわりと解きほぐしてくれる。

朝、目を覚ましホテルの部屋でストレッチをして、それから徐に朝風呂を。普段なら絶対にない時間、行為。

何とも言えない気持。もしかしたら、これも「無」の一部分かも。ああいい。たまにはこうした時間を意識的に創りたいものだ。

さらには朝ラー(朝食ラーメン)。これが何とも旨い。が、私には少々腹に応える。これも非日常であるからしみじみと味わえるのであって、これが日常となると、私にはやっぱり無理。でも、日常の中にこうした変てこな非日常を取り入れるのはやっぱり面白い。

そして蔵を用いての演劇。私という人間は、こうした場面に遭遇すると、途端にエネルギーが全開。面白い、とにかく面白い。演劇を人生として選択して良かったとつくづくと思う。創造力が次から次へと飛び出してくる。

そして、そうした創造が一段落した後の、何とも言えない、長閑さ、ゆったりとした時の流れ、風の戦ぎ。それを許容する風土人々。

そう、突っ走り、闘い、目の色変えるだけが人生じゃない。たった一度の人生、様々な自分を生きたい。そう日常も、非日常も、共に自分。楽しもう、面白がろう、人生を。

今度の公演は、忙しさにかまけていつの間にか影に追いやっていた色々な自分を思い出されて目の前に示してくれた旅でした。