一月二十六日、二月十六日とふた月続けて高塩家の居間で「門付け」をした。一月は「革トランク」「虔十公園林」「あすこの田はねえ」二回目は「フランドン農学校の豚」「めくらぶどうと虹」

初めての「試み」色々な体験をし、多くの事を学んだ。

私は、自分のレパートリーとして「注文の多い料理店・序」「あすこの田はねえ」「構成詩 永訣の朝・松の針・無声慟哭・雨ニモマケズ」「めくらぶどうと虹」「革トランク」「虔十公園林」「なめとこ山の熊」「フランドン農学校の豚」「吾輩は猫である 第一部・第二部・第三部」(全部を通しで上演すると五時間近くかかるので三部に分けている)を持っている。三月の「門付け」で「注文の多い料理店・序」「なめとこ山の熊」を演じるので「宮沢賢治作品」は「構成詩」以外は全部演じた、演じる事になる。

ありがたい事である。

しかし、だからこそと言った方が良いかも知れないが沢山の事実、問題点に出っくわした。

緊張の為か、老齢の為か、とにかく口の渇きが甚だしい。始まって五、六分すると口中がカサカサになる。いつもは何でもなく言えていたセリフが突然出てこなくなる。

(毎月、前半、後半と月二回自分のレパートリーはお浚いしているのだが、そしてその時も出てこないセリフも有るには有るが、そんなに狼狽えはしない。たぶん、お浚いという気安さもあるし、緊張感も全然違うし、台本を手にしているので狼狽えないのであろう。又、水も口が乾けばすぐ口中に含むので、そんなに気にしないで浚っているのであろう)

そんな中、今回二回の「門付け」で突き付けられたそうした数々の新たな問題。それは、今までの何十回もの上演を追いかけ、なぞるのでなく、今の自分の現状の中で、自分のレパートリーを毎回毎回新しく創り続けていく事が出来るのか、可能なのか・・・。

当り前だが、演劇は毎回毎回、その場で、観客と共に新たに創っていくものである。それは当然の事であり、そこが映像との決定的な違いである。

しかし、同じ作品を何年も、何十年も上演して来たものを、演出も、演者も私である私が、それを今の自分を生かして、観客の共感を得られるように、これからも創り続けられるのか・・・。

以前は体力の有るうちは、それまでと同じ演出での、リズム、テンポの演技が舞台が何の苦もなく創る事が出来た。

が、今は・・・。

今の私は、もう以前の私ではない。そう以前より成長した所もあれば、以前のようには出来なくなった動けなくなった所もある。当然である

ならば、二十年演っていようと、三十年演っていようと、同じ作品ではあるが、今、毎回毎回「新作」としての心構えと熱心さを持って、そのレパートリー作品に向い合い、創り続ける事が出来るのか。そして、それがその作品の、演者の魅力を、新しい演出、演技で新たに創り出す事が出来るのか。

そう、何十年演じ続けようと演劇はいつもいつでも一回勝負。その日、その時が運命の別れ目。今の自分に、それを当り前の事として創り続ける、体力、気力、創造力、ひらめき、そうしたものがあるのかどうか・・・。

創り続ける為には、上演し続ける為には、その当然を、当然の事として受け取る、私自身の、体力、気力、創造力、好奇心、冒険心、ひらめきが必要だ・・・。

ようし、やる、やるぞ!絶体に!