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猫の呟き 一覧

猫の呟き

以心伝心

久し振りの「教室」を体験した。講師は私、生徒は一人。「「教室」を受けてから、九年間で五回演出を受けた演出家に『変わったね!』と言われました。だから「今だ!」と思って。私一人ですがお願いします。」「分かった。やろう」

題材は、・・・・・そうだチェーホフの短編「ねむい」にしよう。ただちに台本を郵送し、読み込んでもらう。二週間後「お願いします」という事で「教室」を。

「ねむい」は地味な作品。十三才の少女が、父の死亡後生きる為に田舎から都会の靴職人の家へ子守りに。が、そこは、昼は家事、雑用に追い廻され、夜になると子守り。まとまって寝る時間も与えられない。もう眠くて、眠くてたまらない。とうとうある夜、赤ん坊を殺して、そのままぐっすりと・・・。

陰惨な物語、暗い、どうにもやり切れない物語である。しかし、チェーホフは、淡々と事実を、その少女の心的幻影を書いている。淡々と、淡々と、その淡々とした文章を通して杓子定規な、悲愴な告白よりも、重く、ずっしりとその少女の遣り場のない苦しみ、その少女をそういう生活へ追い遣る、社会の歪みが胸に迫ってくる。

「教室」は九時から十六時五十分まで。約一時間の昼休みを挿んでの真剣勝負。習う、教える、教わるとは・・・。そう、私はこう思う。

「自分の前に立ち塞がる壁を何としても乗り越えたい。その方法を自分のものにしたい。その為のヒント、アドバイスを。」

「そう望む人に対して何をすれば、どうアドバイスをすれば、相手は、その壁を乗り越える方法を、ヒントを、自分のものとして手に入れられるのか。進み始めるのか」

方法は色々有る、人それぞれに自分の合った方法が有る。今、目の前に居る「この人」にはどんなアドバイスが、方法が・・・。「ねむい」の淡々とした世界を創るには、どんなテクニック、アドバイスが・・・。

その両者の思い、願いが一つになった時、そこに何かが具体的な何かが生まれるのだと思う。

疲れた。・・・疲れました。が、気持のよい疲れだ。これからも、出来れば、やってみたい心地よい疲れだ。・・・創る事は、苦しく、そして楽しい。

猫の呟き

非日常だからこそ見えたもの

この騒動はいったいいつまで続くのか。この年末まで、いや来年いっぱい、いや、再来年までも・・・。

当初は他人事であった。「へえ、そんな病気が発生したんだ。大変だなあ」

それがあっと言う間に、他人事から自分事になり、いつしか緊張し、構え、注意怠(おこた)らず、呼吸(いき)を堪(こら)して生活していたのが、こう緊急事態がいつまでもいつまでも継続されると、いつしかそれが当たり前になり、日常になり・・・。いや、それではいかんと、又身構えるが、でも、その緊張も何だかグニャリとした緊張で・・・。

そんな中で、そんな中だからこそ、見えて来たものがある。

そう、生きるって何だろう。

そう、生きるって、たぶんその日、その時を「生きる」事。そう、その日、その時を「生きる」事。

ただそれだけ。そう、ただそれだけ。

それ以上でも、それ以下でもない。

ただそれだけ・・・

私は生きる。ある日、ある時呼吸が終るその時まで・・・

それにしても、この非日常いつまで続くのか・・・

猫の呟き

久し振りの喜びを

先日、久し振りで大学生との表現活動が有った。ゲスト講師として九十分。二十数名(一年生から三年生、四学部合同)

最初に自己紹介と今日の課題、演劇表現の基礎を説明。そして「山頭火」の句を題材としての各人の表現を舞台上で。(各人三十秒から六十秒の表現。アドバイスと講評)

面白かった。楽しかった。感動した。興奮した。そして安心した。(私はまだ、若者と通じあえるんだ!共同作業が可能なんだ!)

こんなにも素直な若者が、今日初めて出合った人間を信頼して、こんなにも熱心に、自分を曝け出して、全力で、全身で、表現活動に集中してくれるんだ。そう彼等は表現者を目指している訳ではない。ただ、授業の一環として、今日、初めて私と出合い、そして九十分間を私と共に生きてくれた。それは上手いとか下手とか、才能が有るとか無いとか、そんな事よりもっと基本的な事。信頼、素直、熱心、集中、素朴さ、若さが持つ可能性、探究心、実行力、etc.・・・

ありがとう。勇気付けられました。とても、とても元気になりました。よーし、やるぞーという気力をもらいました。

ありがとう・・・ありがとう。

猫の呟き

社会教育の場での演劇

「意欲もあり、行動力も有るが、どうも学校に馴染めない子供が沢山居るんですよ。

この子供達に場を与えて自信を付けさせてやりたいんですが、やってみませんか」

「うん、何だか面白そうですね。どうなるか分かりませんがやってみますか」

そして集まった子供達との顔合わせ。

「うん、すごい・・・」

地元の昔ばなしを題材に台本を書き、稽古が始まった。皆初めての事。段々と動き始める。春休みの最後に発表との事で、期間は四ヶ月、週一回の稽古。途中二回の泊り込みの合宿を入れてもらう。稽古だけでなく、大道具、小道具、衣裳、その他やらなければならない事が山盛り。全て子供達には初めて。シンプルに、こっちでやれる専門的事(照明、効果等々)はこっちでやる。

結果は大成功!

そう、やる時は成功させる。その成功が次への行動力となる。

翌年は「ガンバ」を。私が台本を書き、演出もして、全て前年通り。


 次の年。ここからが面白い。

「先生さ、出来たら、台本も、演出も、自分達でやってみたい」

「えっ!・・・うん、やってみるか」

自分達で気に入った話を自分達で、でも、気持ちだけではどうにもならない。話をグループ数に分割して、各グループそこだけの台本を作る。長くて五分、一分以内のグループもある。それを一つの台本に私がまとめる。そして稽古。中学生集団が演出も担当。

「こういう感じでさあ・・・」それぞれ想いは有るが、小学生にはなかなか伝わらない。

稽古が終わり、小学生が帰った後で、中学生と私との稽古。

何故あなた達の想いが伝わらなかったのか、空間を(舞台を)どう使えばその想いが形になるのか、スピード、間(時間)をどう使うのか。

「いい、次の稽古の時、今日やった事を、ちゃんと小学生と作るんだよ」

中学生を育て、彼等のプライドを守る為には、通常の稽古の何倍もの時間がかかる。自分達で作っているというプライドがあるので、面白い試み、アイデアが次々と出てくる。

大道具、小道具。衣裳の制作にも気合が入る。

そして本番。大成功!その喜びの凄まじい事。

次の年からはダンスも入る。歌も入る。もう、やりたい事のオンパレード!

当り前の事だが、それぞれが大きくなって高校生、社会人となり、演出、裏方部門が充実。

「次は僕も、俺も、あたしも出たい!」と小学生の出演者もどんどん増加。

が、好事魔多し。段々とマンネリになってくる。

やりたい事、創りたい事は沢山あるんだがどうやったら、それが舞台になるのか。

初めは自分達の想い、意欲、喜びを「生」でぶっつけた。それが、ある形(舞台)になった。

もっと、もっと、自分たちをぶっつけたい、形にしたい。意欲、想いはあるが、それをどうすれば舞台、形になるか。

・・・そう、これから後は別の段階。社会教育としての「演劇」はここまで。あなた達は自分達の想い、意欲、夢を舞台にするという行動を始め、それを実現させた。自信を持てたろう。喜び、悲しみ、悔しさ、辛さ、我慢も味わったろう。それが大切。それが宝。「生」の面白さ、魅力も大切。だが、それだけでは・・・

後は、そう、何でも、全て、仕事には、創造には技術という土台が必要。それは一朝一夕で自分のものになるなんて、そんな生易しいものではない。コツコツと、飽きる事なく、積み重ねていくもの。辛い、困難な、でも途轍もなく面白いもの。その門前にあなた達は立てたのだ。それは素晴らしい事。でも、でも、この先は別の道・・・。

 そう、教えるとは、教わる事。十年以上にも渡る取り組みがあったので、こうした事も自分のものとする事が出来た。

 ありがとう。みんな元気か・・・。

猫の呟き

あの頃の想い、今も・・・

そう、あれは、たぶん四十年ぐらい前か。社会教育関係から講師依頼が来始めた時分。そこは宿泊が可能で、しかも係の方も大変柔軟性に富んだ職員。何か面白い講座をという事で「百時間で何が創れるか」という講座を提案。年四回、一回二十五時間。それで一つの作品を創り上げる。初めて出合った受講者達が一回二十五時間、それを四回積み重ねて一つの作品を創り上げるという講座。

「うーん面白いですね。やってみましょうか」という事で実現。

舞台表現を創り上げる上で必要なものは沢山有る。一つ、時間。我々は常日頃ともすると時間を使うのでなく時間に使われている。追い掛けられている。だから一回二十五時間を、あるものを創る為に自分達の裁量で使い切る。夕食、朝食、昼食は社会教育施設なので時間は決められている。風呂も何時から何時まで利用可能と枠が決められている。担当職員の計らいで、後は自由という事になる。さあ、初対面同志の参加者、どうする、どうする。一つ一つの回で何をどこまで創る。「えっ、そこまで自分達でやるの・・・」

ここに一つの提示された課題が有る。その課題をグループそれぞれ各人がどう読んだのか、どう理解し、面白がり、それをどう創りたいのか。まずはそれから。話し合いが始まる。自分の意見を言う。他人の意見を聞く。それが創る事の共同作業の土台。で、言って、聞いて、次にどうする。それを形にしていく為には・・・。与えられた時間は限られている。(これは通常の公演時も同じ)

試行錯誤を重ねながら怖ず怖ずと動き出す。役を決め、演出を決め、舞台の図面を取り敢えず決めて。しかし、頭で描いたイメージを自分達の身体と声で創り上げる事は、そんなに容易い事ではない。(それが分かっただけでも十分な価値がある)焦る。苛立つ。ボーッとしてくる。疲れる。そう、人間は休みが必要。さあ、どうする。時間は刻々と過ぎて行く。寝るか、そのまま続けるか。そうなって来ると、それぞれの本性が出てくる。

人間自己主張も必要。他人の意見を理解する能力も必要。妥協も必要。譲り合いも必要。調整能力も必要。つまりそうした演劇を創り上げる為の全ての能力を要求される。

そして次の日の朝食時。色々な顔が、グループの姿が食堂に集う。徹夜で頑張ったグループ。上手に睡眠時間を確保したグループ。・・・それぞれが食べて又創造に励むグループも有れば、疲れ果てて何も出来ずに唯ボンヤリとしているグループ、イライラと、延々と、話し合っているグループ。そして昼前に自分達で創った事の発表。講師の駄目出し。そして又各グループに別れての活動。

昼食。そしてその回最後の発表。

発表が出来たグループ。意見がまとまらずに「今回は話し合いだけで終わりました」とその事を告げるグループ・・・。

「うん、上手くいった。やってよかった」

そう、創るという事は、そうした事全てを克服して、一つの具体的作品を創り上げる事。それは演劇だけでなく他の全ての仕事でも同じ事。

社会教育の中での演劇の活用法の一つ。素敵な職員との素敵な試みの一つ。

あの頃は、あんな試みをやれる、体力、気力、そして自由があったのだ。

そして今は・・・。そう今は、今の条件の中で(己の、社会の)一つの具体的な作品を創る事。己の、社会の具体的条件の下で・・・コツコツと、具体的に、楽しんで・・・

猫の呟き

猫の呟き(充実した空白感)

「五重塔」公演が終って一週間。何も手に付かずボーッとしていた。

気持良く、充実した空白・・・?・・!こんな充実した空白感を、後何回味わえるやら。(出来れば毎回味わいたいものだ)

ゆったりと、確実に、「むかしあったとさ」「吾輩は猫である」の作業に入る。そう、これが私の日常。その日常が、何だか新鮮。

うれしい。

この新鮮な日常を大切に生きたい。

猫の呟き

猫の呟き(伝えたき事)

その日、その時、その事に追われて、慌ただしく過ぎ去っていく人生。

それは何だったんだろうと、過去を考える時を得た今、ふっとその日、その時、その事が心を過る。

九州のある親子劇場での「子どもの創作舞台」というプロジェクト。

「子供達に芝居の面白さを味わってもらいたい、体験させたい」との頼みに応じ現地へ。

行ってびっくり。先方の準備はゼロ。(参加希望の子供達は集っていた)本番まで四日。たったの四日間、さてどうする。

「うーん・・・よし、やってみるか」

第一日。本読み。大まかな動きの確認。「ようし今日は終り。あとは時間まで皆で遊ぼう」

第二日。台本を持ちながら稽古。次の日までにセリフを覚えてくる約束をして稽古終了。

「さあ皆で遊ぼう」(えっ、もう稽古やらないんですか。という母親達の反応を横目に子供達の楽しそうな、生々とした笑い声。

第三日。台本を持たないで稽古。全員セリフを覚えて来た。(そうです子供達はプライドを持っている。こっちが彼等を信用すると、その約束はちゃんと守る。守らなければ叔父さん(私)との信義に悖る。九州だけに「人生劇場」の世界)

第四日。舞台稽古。本番。大成功!

何故成功したか。

そう目的がはっきりしていたからです。この条件の中で、その目的を達成する為にはどうすればよいのか。その具体案を、その条件の中で、一つ一つ実行したからです。

そうなのです。子供達は演劇を目的に来ているのではないのです。楽しみたい。お友達を作りたい。自分を発散させたい。何か、いつもとは違った、変った事面白そうな事をやってみたい。演劇はその道具、切っ掛けでしかないのです。

だから、私はその子供達の目的を夢を叶えてやっただけ。その結果が本番の大成功となったのです。

全力で何かをやる事は楽しい。やれないと思っていた事が出来ると面白い。友達と自由に遊べるのは楽しい。チャレンジって面白い。でも、一番感動したのは、その子供達に接した親達。

「うちらの子供達にも、こんなすごい事が出来るんだ!・・・うーん、よし・・・」

その「うーん、よし」が十年も続きました。そしてとうとう台本も、演出も、振付も、舞台装置、小道具、衣裳、メークアップも気が付けばすべて母親、父親達が担当。

が、ここまで。このプロジェクトはこれで終了。この先、その上を目指すなら・・・そう本当の創造の面白さ、難しさ、達成感はこの先にある。が、それを目指すには、もっと別の基準が。そうです、物を創るには、沢山の稽古、努力、時間、金、才能、etc、が今の、何倍も、何十倍も必要なのです。

そうした、あらゆる必要とするものを動員する為の、条件、能力、努力、体力、気力などが保障され、さらに、それを実際上、遣り遂げる行動力、能力があってこそ・・・

アマチュアとの共同作業で、それがどこまで可能なのか、又それを要求してもよいのか・・・

夢は持ち続けたい。でも、現実は・・・「うーん・・・」

猫の呟き

あるがまま

五月になると七十九才になる。思えば遠くへ来たものだ。

今までの来し方を振り返るとこんなに長生きするとは思わなかった。あるがままに・・・とにかく一生懸命生きて来た。

生れは板橋。強制疎開もあって、埼玉県大里郡深谷町(現深谷市)に。親父は金細工の職人であったが、戦時下、贅沢は禁物と国の方針で勤め人に。小学校四年生の時、再び板橋へ。

小さい頃の思い出は、空腹と、それにも関わらず、とにかく野原、畑、川などで暗くなるまで遊び暮らした事。板橋に帰り、小学校の野球チームの二塁手に。何番を打ったかは覚えていない。小さいながら、家が大変なのは分かるので朝、夕刊の新聞配達のアルバイトを(これは結局中学三年生まで続いた)五年生の時、卒業式で在学生代表で送辞を。母が洗濯してくれた学生服を着て行くと、担任がポツリと「何だ、こんなのを着て来たのか」・・・教師の立場も有るだろうが、貧乏人のこっちにはこっちの都合もある。

中学校では、社会部に入って土器等を一生懸命に作っていた。何でか知らないが、生徒会の三役の一つ、書記に。

教師に成りたくて、高校は、昼は町工場(電線会社)に働きながら定時制高校へ(当時卒業後全日制高校へ行くのは数名、定時制を含めても高校へ行くのは三分の一程度であった)剣道部に所属。夜勤時にボイラー前の石炭の山で仮眠した事、その時に渡される夜食が、コッペパン七ツだった事(コッペパンにどのジャムを付けるかは自由)、初任給が三千九百九十九円だった事などが思い出として残っている。(後一円足せば四千円なのにと思ったのでよく覚えている)

定時制大学へ入りたいと工場へ相談に行くと、「高校へ通わせてやったんだ。大学なんて、何馬鹿な事を言ってるんだ」との返事。

他へ勤めながら大学へ行こうと、高校の就職情報を当ると、面接条件は「全日制卒業者のみ」担任に相談すると、「世の中そういうものだ」(そりゃそうだろうが・・・)

それから二十二才で舞台芸術学院へ入るまでは、今から考えると、私にとって一番危ない時期、色々な事、経験をした。一生懸命に。(そう、色々とありました)

舞台芸術学院に入って最初の授業で、八田元夫先生が「舞台俳優は肉体労働者です。とにかく身体、声を鍛え、創りなさい。その土台の上にこそ、技術が生かされるのです」

それからは、毎日トレーニングそれが今日まで。今でも先生には感謝。・・・先生ありがとうございます。

卒業後、青年劇場に入団。七年間在籍。芝居創りの基礎を学んだ。

退団後、色々の試行錯誤を経て、四十六才の時、高塩景子、あきなんしと三人で「くすのき」を結成、現在に至る。上手くいくという、展望がある訳でも、太い伝手がある訳でも、有利な条件がある訳でもないのに、とにかく一生懸命。よくも続いたものだ・・・。

創る面白さ、生活の為、育児の為、やれる事は全てやった。悔いは無い。でも、それにしてもよくも続いたもの。

さて、これからは・・・。 

そう、これからも、あるがままに、自分の条件の中で、創る面白さを、一生懸命に。

あるがままに・・・そう、あるがままに・・・

猫の呟き

生きる

コロナ禍の中で、ふっと、こんな事を考えた。

生きるって何だ・・・。

いや、この設問は正確ではない。動物、植物、鉱物、その他それぞれの存在にはそれぞれの生き方があり、また我々人間に限っても、男性、女性、年齢、財産、環境、時代、感性、思考の違いによって一人一人それぞれ異った生き方がある。となれば今現在を生きる私にとって生とは何だという事になる。

私はとっても弱い存在。一人では、グループを作らねば存在が出来ない。(私だけではなくたぶん他の人達も)なのに私は1人で居る事が好き。グループは嫌い。なるべくならば、一人っ切りで、自分の好きな事を、自分の好きなようにしていたい。でも、そうであるからこそ、そしてこれも私の大原則の一つだが、他人に迷惑をかけたくない。(しかし人間は、常に、誰かに迷惑をかけて生きて行く動物。なのに、それなのに、一人では生きて行けないのに、そう人間は「我(われ)」というエゴを、考案し、養い、強大にしてしまった。(そして私自身も)

グループは本当に面倒だ。人間の集まりは「我(われ)」のエゴの固まり、ぶっつかりあい。その「我(われ)」の集まり、固まりぶっつかりあいを苦にしない人間も沢山いるだろう。しかし、私にとっては、それは大の苦手。だから一人でいる事が安らぎ、大好き。でも、そんな私、人間は一人では生きられない。それは大原則。ここからは堂々巡り。

・・・この頃の朝は寒い。二時頃に目を覚ます私は、春から秋までは起きて机に向って読むなり、書くなり、セリフを覚えるなり・・・。しかし今は蒲団の中で「五重塔」のイメージトレーニング。(セリフを声に出しながら「ここで立って、右を向いて、間を取って」とブツブツブツブツ)それから新聞を読み、五時ちょっと過ぎに、真っ暗な中を公園に行きトレーニング、六時四十分のラジオ体操まで。帰って朝食、読書、昼食、読書、四時頃になると又公園でトレーニング。夕食、入浴して八時前には就寝。

子育ても終り、仕事もガンガンやる必要、条件、体力もなくなり、それでも好きな演劇は、体力の続く限り、気力の有る限り、記憶力の可能な限り創り続けたい私の、これが日常。そんな私にとって生きるとは。今を生きるとは・・・。

今の自分の条件の中で創り続ける事。

創り続ける限り、私は生きている。うれしい。で、その後は・・・。創り続けられなくなってしまった、その後は・・・。

分からない、その時はその時。その時になって考えてみる・・・。

猫の呟き

本当にあなたの欲しいものは一体何ですか

「コロナ禍」に明け暮れた一年でした。こんな事は、これからは有って欲しくありません。でも人生、終りを告げるまでは何が待ち受けているか分かりません。そう、一寸先は闇。これから先も良い事も有るでしょう。悪い事も有るでしょう。嬉しい事、悲しい事、悔しい事、有頂天に成る事も有るでしょう。でも、それら全てが人生。たった一度の人生。それら全てを全力で、全身全霊でもって、生きる。それが人生。怖い時、不安な時、先が見えない時、イライラする時、「お前は何がしたいんだ」という問いが心の中に聞えてくる。「そう、俺は何がしたいのだ・・・そう、俺は生きたい。生きたいのだ。生きるとは、俺にとって生きるとは・・・そう、創る事、芝居を創る事、与えられた条件の中で、全力で、全身全霊を傾けて、芝居を創る事、それが俺の生きる事。どんな事があろうと、どんな緊急事態の中でも・・・」

「コロナ禍」はまだまだ終息しそうにもありません。でも、人生、たった一度の人生。

―本当にあなたの欲しいものは、一体何ですか―

どんな事が有ろうと、どんな緊急事態の中でも、それぞれが、それぞれの人生を、全力で楽しんで生きましょう。

来年もよろしくお願い致します。

大多和勇

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プロフィール

演劇企画「くすのき」は1988年(昭和63年)に、大多和勇、あきなんし、高塩景子の三人で結成。語り芝居という表現方法で宮沢賢治、夏目漱石、説経節作品を上演。2015年7月東京都国立市に劇団事務所移転。代表高塩景子

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