あるがまま

五月になると七十九才になる。思えば遠くへ来たものだ。

今までの来し方を振り返るとこんなに長生きするとは思わなかった。あるがままに・・・とにかく一生懸命生きて来た。

生れは板橋。強制疎開もあって、埼玉県大里郡深谷町(現深谷市)に。親父は金細工の職人であったが、戦時下、贅沢は禁物と国の方針で勤め人に。小学校四年生の時、再び板橋へ。

小さい頃の思い出は、空腹と、それにも関わらず、とにかく野原、畑、川などで暗くなるまで遊び暮らした事。板橋に帰り、小学校の野球チームの二塁手に。何番を打ったかは覚えていない。小さいながら、家が大変なのは分かるので朝、夕刊の新聞配達のアルバイトを(これは結局中学三年生まで続いた)五年生の時、卒業式で在学生代表で送辞を。母が洗濯してくれた学生服を着て行くと、担任がポツリと「何だ、こんなのを着て来たのか」・・・教師の立場も有るだろうが、貧乏人のこっちにはこっちの都合もある。

中学校では、社会部に入って土器等を一生懸命に作っていた。何でか知らないが、生徒会の三役の一つ、書記に。

教師に成りたくて、高校は、昼は町工場(電線会社)に働きながら定時制高校へ(当時卒業後全日制高校へ行くのは数名、定時制を含めても高校へ行くのは三分の一程度であった)剣道部に所属。夜勤時にボイラー前の石炭の山で仮眠した事、その時に渡される夜食が、コッペパン七ツだった事(コッペパンにどのジャムを付けるかは自由)、初任給が三千九百九十九円だった事などが思い出として残っている。(後一円足せば四千円なのにと思ったのでよく覚えている)

定時制大学へ入りたいと工場へ相談に行くと、「高校へ通わせてやったんだ。大学なんて、何馬鹿な事を言ってるんだ」との返事。

他へ勤めながら大学へ行こうと、高校の就職情報を当ると、面接条件は「全日制卒業者のみ」担任に相談すると、「世の中そういうものだ」(そりゃそうだろうが・・・)

それから二十二才で舞台芸術学院へ入るまでは、今から考えると、私にとって一番危ない時期、色々な事、経験をした。一生懸命に。(そう、色々とありました)

舞台芸術学院に入って最初の授業で、八田元夫先生が「舞台俳優は肉体労働者です。とにかく身体、声を鍛え、創りなさい。その土台の上にこそ、技術が生かされるのです」

それからは、毎日トレーニングそれが今日まで。今でも先生には感謝。・・・先生ありがとうございます。

卒業後、青年劇場に入団。七年間在籍。芝居創りの基礎を学んだ。

退団後、色々の試行錯誤を経て、四十六才の時、高塩景子、あきなんしと三人で「くすのき」を結成、現在に至る。上手くいくという、展望がある訳でも、太い伝手がある訳でも、有利な条件がある訳でもないのに、とにかく一生懸命。よくも続いたものだ・・・。

創る面白さ、生活の為、育児の為、やれる事は全てやった。悔いは無い。でも、それにしてもよくも続いたもの。

さて、これからは・・・。 

そう、これからも、あるがままに、自分の条件の中で、創る面白さを、一生懸命に。

あるがままに・・・そう、あるがままに・・・