「死」の変遷
「死」という事を真剣に考えだしたのは、おそらく中学生ぐらいの時が初めてであったろう。「死」というものが無闇に怖くて、それが分かりたくて「教会」へも行った。手当り次第に「本」も読んでみた。
でも、何も分からなかった。
次に「死」を考えたのは、もうそれから大分後の事。立川市の何かの委員をしていた時(たぶん四十代の頃)、「野辺山天文台」へ視察の序でに寄った時の事。そこの研究員から「星も生滅するんです」と説明を受けた時の事。
「星も生れて、死ぬんだ。ならば人間が生まれて死ぬ事なんて、当り前の事なのだ!」
ショックを受けると同時に、強く納得した。でも納得はしたが、でもそれだけである。
そして今、こう考えている。
「死」とは本源に帰る事なのだ。そこは「空」であり、「有」であって「無」なのだ。「無」であって「有」なのだ。「始まり」であり「終わり」なのだ。「終わり」であって「始まり」なのだ。「生」とは永遠であり一瞬なのだ。一瞬であって永遠なのだ。「死」とは一瞬であって永遠なのだ。永遠であって一瞬なのだ。だから、それは私にとって分からないのが当然なのだ。当然であるからそれを素直に受け入れればよいのだ。つまり「死」とは本源へ帰る事なのだから。
時々、ボーッとしている時、何かに夢中になっていて、疲れて一息入れようと気を弛めた時、そんな「死」の想いが浮んでくる。ゆったりと。
全ての事は人間の成長と共に、時間の経過と共に変化する。「死」についての想いもそうだろう。さて、次はどんな「死」の想いが顔を見せるのだろう・・・。
「四十八癖」五分の三は覚えたようだ。三ヶ月で五分の三・・・。
これが。今の私・・・そう、これが、今の、自分。
この自分を受け入れて・・・(だって他にどうしようがあるのだ・・・受け入れなければ、一歩も先へは進めない・・・)
生きるとは、人生を愛するとは、こういう事の毎日を受け入れて生きる事なのだろう。

