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大多和 一覧

猫の呟き

覚悟

「研究室」での「立稽古」が始まった。初めての試み。やりたかったが、私にも、参加者にも、そこまでの覚悟はなかった。

仕事を持って、あるいは家庭を持って、その上に自分の楽しみである「市民劇団」の活動に参加して、尚その上に「自分の創造に満足せずに、もっと、もっと、自分の創造を深め、豊かにする為の自主的、自覚的行動を選択する事」の大変さはよく分かる。誰でももっと上手くなりたい。もっと自分の可能性を深め、広げたい。当り前の事である。

でも、今の自分に、それを実行に移す、時間的、金銭的、肉体的、その他諸々の条件がはたして有るのか、無いのか。

有ると言えば有る。

無いと言えば無い。

要は自分の人生は、自分で決めるしかない。人はある時代を、ある条件の中で生きる。その時代をどう考え、その条件をどう利用し、どう変えるか。それぞれが、それぞれの思考、行動によって、それぞれの人生を生きる。

「創造する事」は面白い。楽しい。

が、その面白さ、楽しさを、どの程度、深め、追求し。実行するか、あるいは出来るのか。あなたはどう生きたいのか・・・。

人は自分の人生を、自分の責任でもって、生き、楽しむ。当然の事。他人に決められる人生なんて真っ平。

「創造も同じ」

もっと楽しみたい。もっと深め、広げたい。その為に、自分の責任で、その時間、金銭、条件、その他を作り、生み出す。

面白い。ワクワクする。ぜひ、それに私も参加させて下さい。手伝わせて下さい。

やりたいです。やってみたいです。

参加者は三名。

チェーホフ「かき」が二名。

自作「炎の人、滝沢修」が一名。

面白かった、楽しかった。帰りの電車での疲れの激しかった事。久し振りに、夕食後、かなり長時間、食卓の前に坐り込んだまま・・・こんな時間の過し方、久し振りだなあ・・・

「むかし あったとさ」稽古もいよいよ大詰。二人共、眼の色が変わって来た。

コロナ禍の大変な状況下で観に来て下さる方達には、是非喜んでいただきたい、楽しんでいただきたい。いつもとは異なった時間を味わっていただきたい。体全体を使って、シンプルな、分かりやすい舞台を作りたい。

そう、何事も詰が大事。細かい事は捨て去って大胆に、シンプルに。そして楽しく。

猫の呟き

報告、そして決意

坪内逍遙訳「シェークスピア全集」(新樹社)読了。

「ロミオとジュリエット」「マクベス」条件が適うなら公演してみたい作品。年齢に関係なく、バイタリティがあり、スピードがあり、意欲があり、しかもそれを表現に具体化する為の努力を惜しまぬ人間が集まるなら、面白い舞台が実現するだろうし、又その自信も有る。少人数で、スピーディーに、そしてダイナミックな舞台・・・。人間いくつになっても「夢」は見続けていたいもの。

「コロナ非常事態下」の三ヶ月間を経て、今痛烈に感じている事。

私の若い時分、「毎日オリオンズ」(今の「ロッテ」の前身)に榎本喜八という一塁手が居た。地味だが、「安打製造機」と呼ばれたぐらいの名手。何故だか知らないが好きだった。

その榎本選手が引退後の話である。引退後も毎日毎日バットを振り続けていた、練習に余念がなかったとの事である。

もし、どこかの球団から声を掛けられたら、すぐに出場出来るようにと・・・彼はすでに引退したのである。普通なら、プロ時代の事は過去。いわゆる、残りの人生、悠々自適を決め込むだろう。しかし、彼は、プロ時代と同じ練習に余念がなかった。

もし、声がかかったら・・・そう、そうなのだ。彼は「職人」なのだ。引退しても毎日練習に打ち込む。彼の気持、行動が、職人である、職人で有りたいとする、私にはよく分かる。

世間は、他人は、彼を榎本喜八を変人という。変わり者という、そう、彼は「変人」変わり者なのだろう。しかし「仕事」とは職人とはそういうものだ。「これが私です」その矜持こそが、その打ち込みこそが職人の「宝」なのだ。その為には、その誇りを保つ為に彼はどんな状況の下でも、ただ黙々と、稽古に、練習に励まなければならないのだ。

「祭」が復活する日まで、生と生との交流が復活する日まで。

それが、いつの日、いつの頃なのか、それは誰にも分からない。もしかして、それは永久に来ないかも・・・

その頃、私の体力は、気力は、創造力はそれが可能な状態であるのだろうか・・・。

でも私は励む。榎本喜八選手を目標にして・・・。

猫の呟き

坦々と、淡々と

毎日毎日が同じ事の繰り返し。それが、表面的には未知のウイルスの出現によっての、私達の反応、対応、防御方法・・・。

そう、その事で人間は生かされているのだという当り前の事実を思い知らされる。

そう、これも人生、これが人生。これを受け止め、どう毎日を生きるか・・・ 今、私達はそんな大きな問いかけを毎日毎日されているのかも・・・近松全集全十七巻読了。当り前の事ではあるが、近松はやはり浄瑠璃作者。語り物の大天才。夏目漱石「吾輩は猫である」の「・・浄瑠璃の近松ですか・・・」という一文の意味がよく分かった。翌日から坪内逍遙訳「シェークスピア全集」(新樹社)を読み始める。戯曲三十七作品、詩三作品。(今現在二十一作品を読了)緊急事態宣言もまもなく解除になるだろう。そうなれば具体的な演劇活動も徐々にではあるが、始められるだろうし、いつまでこんなゆったりとした読書を・・・。

でも、こんな機会、そうそうあるものでもなし(たびたび有っては困る)具体的演劇活動をやりながら、最後まで、じっくりと読み切ろう。(こんな気持ちも、今回学んだ事の一つか)

今年は何回舞台に立てるのか。何本演出が出来るのか。何人の創造者と向かい合えるのか・・・

・・・有るがまま・・・そう有るがままです。

猫の呟き

えーッ!嘘ーッ!有り得ないーッ!

こんな変てこりんな時間が、こんな長期に渡って、我人生に有ろうとは・・・。

人生終りあるまでは、何が起こるか分からない・・・。

「近松全集」(岩波)九巻まで読了。今十巻に入ったところ。こんなに沢山、長期に渡って浄瑠璃ばかり読む事は、もうこれからは無いだろう。これも、今度の「異状事態」の余波の一つ?・・・

「語り」(浄瑠璃)の天才、大名人、近松の作品であっても、今の私にとって演ってみたい作品は、九巻まででたったの三作品。(この年で、しかも私が、これから演ってみたい語ってみたいという事も、少し変?向う見ず・・・)

でも、人生必ず中途半端。一つ一つ、その時その時は、完成を目指して、創り、行動し、生きるのだが、創り上げ、一応完結となり、少したってみると・・・あーッ。あそこをこうして、ここをこうしてと・・・。

そう、完結はいつも始まりの合図。

いつも、いつも常に完成、完全を目指すが(でなければ観客にも、仲間にも、相手にも失礼)しかし、終ってみれば、そこは次への出発への合図。

それを、倦まず、飽ゆまず、生き続ける、創り続ける・・・

そう、それが人生の醍醐味。

さあ、明日も楽しもう!

猫の呟き

あるがまま

あれよあれよと広がるコロナウイルスの猛威によって、三月の予定表は一つ消え、二つ消え・・・いつの間にかまっ白に。そしてその勢いが四月の予定表にまで侵入して・・・。フウ、まあ人生色々、人間の小ささ、弱さ、傲慢さとつくづくと思い知らされています。

でも、こんな時こそ、自分を知り、試す良いチャンス。今遣れる事を一つ一つ確実にと、「自分のレパートリー」十作品の稽古。洗濯をいつもと変わりなく、月初め、月半ばに小宮公園で。気分転換にもなり気持良い。朝早く出かけ夕方まで、弁当、コーヒー、お菓子持参でユッタリと。さらに週一度、今回止むを得ず延期となった「起てハムレット」、七月公演予定の「むかしあったとさ」、さらには来年公演予定の「五重塔」の稽古を清水公園で。こちらは朝出かけ昼まで約三時間。コーヒーを一本妻に用意してもらい、飴三粒でOK。こちらも気分転換としては最高。さらに、さらに、朝のトレーニングに加えて、夕方三十分程度の軽いトレーニングを。これは家の近くの遺跡公園で。「精が出ますね」との御婦人方の、激励とも冷やかしとも判断しかねる声を背に受けながら黙々と。まあ、やれる事を一つ一つ確実に。それが人生、それが私・・・。まあ、こんな事も人生有るさ・・・。

図書館が閉じられたので仕方なしに家に有る本、それも長期戦を覚悟して、腰を落ち着けてじっくりと取り組める奴を見繕って。

「月間マンガ少年別冊『火の鳥』」(手塚治虫作)①~⑨をじっくりと。コマの展開の仕方、テンポの良さ、アップ、ロングのやり方の巧みさ等々、大いに演出の参考になる。それにしても何年ぶりに読んだのだろう。次に「月間マンガ少年別冊『サイボーグ009』」(石森章太郎作)①~②を。前作に同じ。文字を出さず、絵だけで勝負しようとするシーンに作者の凄みを感じる。さらに中央公論「大乗仏典」全十五巻を読了。(そんなにも非日常の時間が何の前触れもなしに与えられたという事です)日記を繰ってみると以前読んだのは2014年。こんな偶然が降りかからなければ再度目を通す事もなく終ったかも。そう考えてみればこれはこれでありがたい事かも・・・。

 あるがままに生きる

 行く河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず・・・

 空

 完成という事は、人間の、人類の歴史には有り得ない、全てこれ中途で終り・・・

 それを土台に人生を生きる。

 その中で俺は演劇という人生を選択した。

 俺はその選択を、

 つまり演劇という人生を、

 成功も、失敗も、賞賛も、嘲りも、名誉も、褒賞も、そんな何もかもを当り前の事と受け止めて、

 黙々と、喜んで、生々と、工夫に工夫を重ねて、やり続ける、やり続けられるのか。

 えっ、その覚悟、勇気、努力、体力、気力があるのか・・・えっ、どうなんだ・・・。

 やる、やります、だって、それが私の選択した道だから・・・・・。

 「大乗仏典」は読む度事に、重い課題を私に突き付ける。ありがたい事です。

次は、そう「近松全集」(岩波書店)に取りかかろう。全十七巻・・・コロナウイルスが終息して、途中でその冒険が終りになってくれればよいのだが、どうなる事やら・・・。

ああ、明日(あした)、天気になーれ!・・・・・

猫の呟き

教える事、教わる事

教えるという事は本当にやっかいな事だ。(私の場合は演技、創造の面での)

あれは、こうやれば、こういう練習を続けていけば、クリア出来るのに。さて、どうするのだろう・・・うーん・・・うーん・・・

そう、そんな時はこちらから声をかけては絶対に駄目。お互いプラスになる結果は得られない。

創る、演じる当人が自分で壁にぶち当たらない限り、自分で壁を経験しない限り、そしてそれを乗り越えようと意識しない限り、それを乗り越えよう、ぶち破ろうなんて行動は起こさない。起こすはずがない。だって、自分で壁にぶち当ったと自覚しない限り、自分で壁を経験しない限り、自分でそれを乗り越えようとしない限り、その人の、そこには「壁」は存在しないのだから。存在しない限り、意識しない限り、「壁」は有っても無い。当人にとっては他人事。

ああ、おしいなあ。あいつ、あのひと、もっと大きな、美しい華を咲かせる事が出来るのに・・・。

だが、それもこれもおせっかい。

そう人間一人一人に、それぞれの人生が有り、それぞれがそれに向き合う。だから、それぞれが、それぞれの人生をおもいっきり、楽しむ、自分の責任、自分の条件の中で・・・それが人間の一生。それが生きるという事・・・

それぞれが、それぞれのやり方で、人生をおもいっきり楽しもう。

猫の呟き

ギア・チェンジ

突然、何の前触れもなく、中央公論社発刊の「日本の名著」「世界の名著」の手元に置いてあるものを読み始めた。四十五、六年前(私の三十二、三頃)俳優学校卒業後入団した劇団を退団し、「さて、これから先どうするか」と、仲間達と勉強会やら「劇団」らしきものを作り、週何回か書店でアルバイトをしていた頃に買い揃えた全集。「世界の名著」全八十一巻、「日本の名著」全五十巻。バイトをしていた関係で少しは値引きしてくれたが、一冊千円ぐらいの本。当時の私にとっては大変な決意。それぐらい迷っていたし、何かを探し求めていたのだろう。読んで手元に残すものは残し、必要なしと判断したものは処分して、段々少なくなり、最後に残ったものが今回読み進んだ「夏目漱石・森外」「河上肇」「日本書記」「世阿弥」「道元」「法然」「親鸞」「近代の芸術論」「フロイト」「ユング・フロム」「バラモン教典・原始仏典」「大乗仏典」「聖書」「老子・荘子」「孔子・孟子」「諸子百家」「禅語録」「アリストテレス」「エラスムス・ トマス・モア」「ダ―ウィン」「プルードン・バクーニン・クロポトキン」「アダム・スミス」「マルクス・エンゲルス①」「マルクス・エンゲルス②」の二十四冊。そして読了後、手元に残ったのが「世阿弥」「道元」「法然」「親鸞」「フロイト」「ユング・フロム」「聖書」「禅語録」「アリストテレス」「マルクス・エンゲルス①」「マルクス・エンゲルス②」の十一冊。これから後、これを読む機会が後何回ある事か。そして、その後「古今亭志ん生」「立川談志」「林家三平」を読み、「ああそうだ。五月末公演の「市民劇場TAMA」の演出、演技指導のアドバイスを三月末と五月の計二回頼まれたので、その準備をしておかなければ」と原作者の「柳美里」さんの本を読み始めましたが、さあ、これが大変、見事に嵌まってしまい、この処、時間さえあれば「柳美里三昧」の毎日。自分にはまったく無い何か・・・、いや、自分の中にあって自分では気付かなかった何かを提示された驚き、そして、それは何なのかを知りたい興味・・・。とにかく今は、気持ちが一段落するまでは「柳美里」を追求してみたい、そんな今日この頃です。そう、何かが変化、ギア・チェンジしたのだと思う。七十代から八十代へのギア・チェンジ。今までもそうだった。五十代から六十代へ、六十代から七十代へ。ある時期、突然に「あれっ・・・」と思っているうちに「ははあ、そうか。チェンジしたんだ」と納得。さて、今年は七十八才。しかし昨年までの自分とは変化した自分があるはず。力まずに、あせらずに、日一日を楽しんで・・・。まず、そう三月の「起てハムレット」をじっくりと・・・。

猫の呟き

おやすみなさい、おはようございます

十二月十四日、今年最後の「研究室」(ワークショップ)があった。当初参加予定者は七名であったが、当日間際になって体調不良、急用が勃発し参加者は三名に。始まる直前にその事が分かったので、急遽予定を変更。「ぐず」を一日かけて取り組む事にする。

まずは「素読」文章をゆっくり、はっきりと分かるように読む。

次に「ピース分け」

戯曲を始めから終わりまで、話の発展、進行に従って「ピース」に分け、一つ一つの「ピース」の意味を確認していく。そして、チェーホフという作家の特長、及びその時代を簡単に説明。(チェーホフの特長、日常の中のドラマ。淡々とした《そう見える》私達の日常生活の中に潜むドラマ)そして二組に分け(一組には高塩が参加)自主稽古を一時間半。各組共、どう舞台を作るか、どういう作品にしていくかを、話し合い、行動し、又話し合い、行動し、少しずつ形が作られていく。

形が見えて来た後半「そんなに芝居っぽくなく、もっと、普通の日常会話で」とか、二人の登場人物の位置をどうするかで、作品の意味の伝わり方が具体的になるのか、あるいはぼんやりしてしまうのかが決まる等々、少しずつアドバイスを加えていく。そして昼食前の稽古の締めとして通してみる。それに対してのアドバイス。

そして昼食。

午後は私の演出で、それぞれの組が創ったものを作品に。

「各人が自主的に創り上げるエチュード」と「演出家が参加して観客の為に創る演劇」との違い、そして「エチュード」「演出家」のそれぞれの役割を説明。自主的に創る「エチュード」の大切さを伝える。

演劇は作り物です。つまりエチュードで創り上げた真実(本当)を観客に作品として伝える為には、空間と時間の芸術である演劇は、又、その日、その時、その場所で、始めてお互いに対面し、共同作業で一つの作品を創り上げる為には、その真実(本当)に、ある作為(嘘)、作り事を、効果的に使う事が必要です。そうする事によって当日初めて参加した観客にも創造に参加する為の目じるしが与えられるのです。それが舞台芸術である。「エチュード」(真実)と「演出」(作為、作り事、嘘)をどう上手く交ぜて、観客を積極的に、自主的に、又素直に、楽しく参加させられるか。

「今日、講座に参加出来て、得した!」という、参加者達の声。参加者が少なかったからこそ、こんな贅沢が出来る。でも、これでいいのか、これで続けられるのか・・・(苦笑)

そして、同じ台本を使っての、まったく異なる二つの作品が目の前に!

「先生、ダブルキャストの時はどうするんですか」

「当り前だが、役者が変われば舞台は変わったものになります。だってどちらかの演じ方に合わせろという事は、どちらか一方の創造、個性、自主性を捨てろという事でしょう。私の(大多和の)創造方法の中にはそういった考えはありません」

そして休憩後の再度の通し。一組は直前の演じ方を再現しようと後追い。演じながら戸惑う二人。

「分かったでしょう。創ったものを再現(後追い)するのでなく、一回一回、その時、その時、自信を持って創り続ける為には、自分の創ったものが、本当に自分のものになる為の、何十回、何百回もの稽古が必要なのです。でも、アマチュアで芝居創りを続けていくあなた方に、それが可能なのか、どうしたら、それがやれるのか・・・。難しい問題だが、各人が、各劇団が、それぞれ考え、試行錯誤しつつ、それを具体化していかなければなりません。でなければ、『舞台で立てただけで幸せ!楽しい!』の状況のままで、その先はありませんものね。無理、難しいかも知れないが、創る事の楽しさ、難かしさ、奥深さを味わってもらいたいのです。でも・・・」

そして、もう一組は以前の発表の上に、幾つもの新しい工夫を付け加えての熱意溢れる舞台を。が、あれもこれもで騒々しくなる。

「そうです。稽古は、特に始め頃の稽古には、前回の「なぞり」でなく、毎回毎回新しい試みを加える事が大切です。しかし、公演を向かえた稽古後半は、どうしても必要なものだけを残して、あとは捨てていく事が必要なんです。自分の創ったものを捨てるのは難しい事だが、観客にあまりにも沢山のものを押し付けては、観客は整理できずに、戸惑ったまま、共同作業に参加しなければなりません。それは損です!いいですね、稽古のいつまでは足し算を中心に、そしていつからは引き算を目標に、これが出来なければなりません。その見極め、判断が大切なのです」

そして残り一時間で「かき」と「ワーニカ」の一人語りの稽古。

「ああ、今日は面白かった」「得した!」

同感!私もそうでした。

でも・・・そうです。「研究室」を一年続けた結果、色々な事が見えて来ました。「研究室」を続ける意味は。又、「くすのき」にとっての意味は・・・。もしかして、この「研究室」は大多和個人の我儘、趣味なのかも・・・そう、そうかも・・・。

いつか、この問題の答を出す時が、出さなければならない時が来るでしょう。それはいつ、そしてどのような答が・・・。

今年も色々な事がありました。年度始めと、年末の今の状態・・・えっ、こうなるの・・・。そう、これが人生。明日は明日の風が吹く。その中で、自分自身、一生懸命、精一杯、笑ったり、泣いたり、悔んだり、自信持ったりして生きていく、生き続ける、来年も一日一日を力一杯生きます。

追伸

久し振りで、飲み物、食事、台本を沢山持って小宮公園へ。早朝から、日が陰る直前までの初冬の公園の中の私。私にとって一番素直になれて、自然体で居られる空間と時間。私って、そういう人間なんだとつくづく感じました。

猫の呟き

全身全霊全てを用いて

久し振りに子供達と舞台を創っている。

自分達で創るので、アドバイザーとして手を貸してくれとの事なので引き受けた。

六月から十二月一日の本番まで十一回。月に約二回の勝負。 

最初の頃は何人かを除いて殆どが受身。(今までの付き合いで何人かは自分で何かを創ろうとしていた。)

指導の一環として、一つの例として演ってみせる。と、その表面を真似ようとする。

「そうじゃない。自分で創ってごらん。今大多和さんが演って見せたのは、一つの例。こうゆう演り方もあるんだよというだけの事。いい、舞台は自分で創るの、台本をよく読んで、演出の言う事をよく聞いて、仲間の稽古をよく見て、皆んなで、一つの舞台を、お客さんと一緒に創るの。だから、お客さんも一緒に創れるように、ちゃんとセリフを言って、お客さんに分かるように演技をするの。自分達だけが分かっていたって駄目。お客さんも一緒に創るのだから。」

毎回毎回同じ事の繰り返し。(そう見えた。)

でも違っていた!

そう、先日の稽古事のコーラスで参加して下さる大人達の感想。

「私も子供達と一緒の舞台に何回か出演させてもらっているが、こんな自主的な子供達には久し振りです!」

そして黒子として参加しているお母さん達の感想。

「すごい!ちょっと前とはすっかり変って、皆んな生き生きとして。私も負けないように頑張ります!」

そうです。子供の自主性を侮ってはいけません。

子供達は自主性を尊重されていないので、普段は「受け身」だけが目に付くが、自主性を確保し尊重すれば、こっちがびっくりするような表現を創る。

そう、待つ事です!子供達が自分達のペースで創れるように。大人のテンポを押し付けるのは最悪!

十二月一日の発表を目指して、もう一踏ん張り!

全身全霊、自分の全てを用いて創る事の面白さを味わって欲しい!

・・・ありがとう・・・

猫の呟き

「創造意欲」に火が付いた

八月喜多方、九月東京での「しんとく丸」公演が、私の内部の「創造意欲」に火を付けた。稽古する事の大切さ、面白さ、豊かさ、素晴らしさ、そして「説経」を通しての「語り」の魅力を思い知らせてくれた。そして、回遊魚の私は(私の弟子が私に付けてくれた綽名)その刺激に反応して、忽ちの内に行動しはじめた。四年後以降の、自分の一人芝居の台本創りに走り出したのである。

2020年は「起てハムレット」2021年は「五重塔」2022年は「吾輩は猫である」

そう、それ以後、つまり八十一才以後のレパートリー創りに走り出したのである。

朝の体操仲間の何人かが、常々言ってくれる。「あなたは、後十年は大丈夫。いや、十五年ぐらいは現役を続けられるかな」

乗りやすい私は、すぐにそれに励まされて乗る。そう、これからは「落語」の世界も演ってみたい。そうだ、その手始めとして、以前三人で演った「四十八癖」を一人語りで演ってみよう。そう、それと「説経」の、これも以前三人で演った、「おぐり」(小栗判官と照手姫)と「さんしょう大夫」(安寿とつし王丸)も一人語りで。

そう、八十一才以後の回遊魚の挑戦目標が明確となりました。

じっくりと、しかし確実に、今の仕事を第一に考えながら、具体的作業が動き始めました。

乞うご期待!

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プロフィール

演劇企画「くすのき」は1988年(昭和63年)に、大多和勇、あきなんし、高塩景子の三人で結成。語り芝居という表現方法で宮沢賢治、夏目漱石、説経節作品を上演。2015年7月東京都国立市に劇団事務所移転。代表高塩景子

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